どん底まで病んだら、弟が世界規模で輝いた

 
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「心身の不調」というのがある。前に一度「身心の不調」と書き間違えた。でも、これは心身が正しい。その漢字の順番通り、私はまず、心の調子が悪くなり、そのあとすぐに、体の調子も悪くなった。言葉というのはうまくできている。

 そんなわけで、大学生の時から、10年ずっと勤めていた会社を、はじめて休職した。

 休職したかったわけではない。

 でも、会社が入っているビルのエレベーターに乗り込んだ瞬間、気づいたら床に座り込んで、息ができなくなっていた。悲しくないのに涙がぼろぼろこぼれた。

 これは、もう、アカン。そして私は働くことができなくなった。

 しかし2ヶ月後には、会社へ華麗に舞い戻っていた。それから1年後に会社を辞めるまで、私は休職する前以上に、元気もやる気も満々で働くことになる。

 そのきっかけになった話を、すこしだけ。

 

 休職の2ヶ月間、なにしてたかって言うと、寝てた。陸に打ち上げられたトドのようだった。でもたぶん、トドの方が動いていると思う。

 めちゃくちゃ、疲れるの。なにもしてなくても。

 とにかく気分の浮き沈みが激しくて、自分の心に身体がついていかない。安全バーなしのジェットコースターに乗ってるようなもん。

 落ちたら死ぬので、とにかく車体にしがみついて、振り回されるしかないって感じ。

 ジェットコースターへ乗ることになってしまったきっかけは、仕事で関わった、とある人の、とある心ない言葉だった。

 365日中、364日の私だったら「ふーん」と一笑して終わってたはずなのに。

 たまたま、その言葉をぶん投げられた日は、ダメな方の1日だった。エアポケットみたいに、ドーンと落ちた。

 一回落ちると、もう、本当にダメだった。お手上げ。

 二年くらい前、私と同じような状態だった知人に話を聞いたことがある。

 知人は「必要以上に自分を責め続ける」とか「被害妄想がひどくなる」とか、自分の心がコントロールできないことに悩んでいた。

 

 その時は「大変だなあ」くらいにしか思ってなかったけど、今になって、めちゃくちゃわかる。わかりすぎる。

 多分、人って、原因がわからないという曖昧で気持ち悪い状態を、本能的に嫌うんじゃないかな。

 だから、無理矢理にでも、原因を自分にしちゃうんじゃないかな。

 そういうふうにできてるんじゃないかな。

 私は、とにかく自分を責めていた。

 「あの人が心ないことを言ったのは、私の仕事の能力が低かったからだ」

 「自分だけ休んで、みんなに迷惑かけて、私は本当にダメだ」

 毎日、毎日、寝ても覚めても、そんなことを考えていた。

 よろよろとした足取りで、コンビニへご飯を買いに行ったときなんて。コンビニの店員さんがお弁当にお箸を入れ忘れていただけで。

 「ああ、私の態度が気に入らないから、わざとお箸をくれなかったんだ」

 家に帰って、悔しくて、情けなくて、泣きつかれて眠る日もあった。店員さんが気の毒なほど被害妄想も甚だしいが、本気でそう思っていた。

 

 それから私は、暇さえあれば、いかに自分がダメな人間かを考えはじめた。そうすることで、落ち込んでいる自分を正当化したかったのかもしれない。

 

 私は昔から、すれ違う人によく舌打ちされる。あまりにも舌打ちされるもんだから「大阪の人は怖いなあ」「東京の人は冷たいなあ」「名古屋の人はせっかちだなあ」と、偏見にまみれた地方性のせいにしていた。愚かである。

 これね、実は、私の歩き方がおかしかったんですよ。

 前を見ているつもりが、なぜだか向かってくる人に気づけず、衝突寸前。

 まっすぐ歩いてるつもりが、知らないうちに、斜めに歩いてる。

 注意力が散漫で、無意識に遠くの看板を読んだり、走る車を眺めたりしている。

 これ全部、同僚から「そんな歩き方してるから、ぶつかるんだぞ」と呆れられて、初めて自分のせいだと知り、愕然としたわけで。

 

 基本的に私の発する言葉は情報過多であることにも気づいた。

 興味の移り変わりの激しさが3歳児のそれなので、対話でもプレゼンでも、話している最中に、思ったことや目についたことを、突拍子もなく話してしまう。

 30代女性をターゲットにしたサービスの定義の話を始めたはずが、いつの間にか、カタツムリはコンクリートを食べるという話に変わっていたりする。

 話したいことが、売れる前の五木ひろし並にコロコロ変わる。

 自分では止められなかった。そもそも自覚がなかった。

 空気のおかしさを感じ、ハッとして喋るのを止めたら、周りが苦笑いしている。会社で営業をした頃は、同席していた上司によく「新しい案件のヒアリングなのに、お前ばっかり話してたな」と呆れられた。

 

 そしてなにより、細かいことを丁寧にやるのが、大の苦手だった。

 事務処理やスケジュール管理なんて、上手にできた試しがない。

 経費処理に使う大量の領収書を、申請日ギリギリに失くしてしまい、半泣きで家を探しても見つからなかったことがある。飲まず食わずで探し続けたので、疲れ果てて、せめて米を炊いて腹ごしらえしようと空の炊飯器を開けたら、領収書の束が出てきた。なんでだ。

 

 みんなが当たり前にできることが、できない。守るべきルールが、守れない。

 どうにか頑張ってみても、失敗ばかり。

 ああ、私は、他人に迷惑をかけるために生まれてきた非常識人間だ。

 そんなコンプレックスとともに、ずっと、生きづらさを感じていた。

 でも、理解のある家族や友人に支えてもらって、なんとかやってきた。やってきたと思っていた。

 でも、だめだった。27年間生きてきたけど、自分に自信なんてこれっぽちも持てなかった。27年間、ひのきの棒と布の服で、はじまりの村の周りをぐるぐるうろついてただけだった。

 

 心のシャッター閉店ガラガラ状態の折。

私は4歳下の弟・良太と、一泊二日の旅行をすることになった。

 良太は、生まれつきダウン症という染色体の異常があり、知的障害もある。みんなと同じように話すことは難しいし、難しい話もわからない。でも、勉強なんてできなくても人は優しい真心さえ持ってれば良いのだというのを地でいく、よくできた弟だ。

 良太は、姉がトド化している原因なんてもちろん、よくわかってない。でも、毎日じわじわと肥えていくトドがリビングを占拠しているもんだから、「どっか行こ」と言ってくれたのだ。

 弱りきった私でも、弟を楽しませることくらいは、できるだろうか。

 行き先は「人間さいねえところへ行くだ」という自閉しきった私の希望と、「USJに行きたい」という良太の希望をすり合わせることにした。

 「人がいない」「テーマパーク」という、矛盾しきった二つの言葉をGoogle検索に打ち込んだら、三重県のパルケ・エスパーニャがヒットした。なんと、公式が「人がいないから、並ばずにアトラクションに乗れる!最高!」と自ら告知していた。

 頼もしいやら悲しいやらでなんとも言えない気持ちになり、行き先はそこに決めた。

 

 久しぶりに、長いこと外へ出た。太陽の殺人的な眩しさにげんなりしながら、無事に三重までたどり着いた。

 パルケ・エスパーニャへ向かうバス停で、私は度肝を抜かれた。

 バスを待つそこそこ長い列に並んでいた。向こうの交差点からバスが近づいてきた時、列を整理していた係員さんが「両替ができませんので、小銭のご用意をー」と言った。

 私は、かざす気満々で手にしていたSuicaを、取り落しかけた。これでスマートに乗車する気だったのだ。小銭なんぞ、ねえのだ。

 しかし、このバスに乗り遅れれば、開園時間には間に合わない。

 柔らかな春の風吹き込む伊勢志摩の片隅で、青ざめてパニックになる私。

 なにを思ったか、私は良太に1000円札を握らせた。そして、親指と人差し指で輪っかを作って見せる。「銭」を示す下世話なジェスチャーであった。

 「なんか、ホラ、あのインフォメーションっぽいところで、くずしてきて!」

 弟に、一抹の望みを託したのだ。

 なに食わぬ顔でうなずき、のっしのっしと、たくましく歩いていく良太。その背中を見送りながら、私は全力で後悔した。

 間違えた。良太が列に並んで、私がくずしてきた方が、よかった。

 そもそも良太に、札をくずす、という言葉が伝わるのだろうか。きっと両替すらしたことはないだろう。

 ああ、良太にも申し訳ないことをした。バスは諦めて、次のを待とう。

私が諦めてからほどなくして、良太がのっしのっしと戻ってきた。

左手に小銭

を、右手にコカコーラのペットボトルを持って。

その、堂々たる有志ったら。

背中から光が差し込んで見えた。

そして私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 

 なぜ良太は、やったこともない両替を、やってのけたのか。

 たぶん、こんな感じのことを考えたんだと思う。

 「姉ちゃんが丸いお金を欲しがってる」

 「そういえば、自動販売機に紙のお金を入れてジュースを買ったら、丸いお金が出てきたはず」

 「どうせなら、僕が好きなコーラを買っとこう」

 良太は、インフォメーションで両替をしたことはない。でも、自動販売機でジュースを買ったことはある。

 だから、そういう行動に出たのだ。

 良太は、これまでの人生で得てきたなんとなくの経験値と、周りの大人のみようみまねで、私の窮地を救ってくれたのだった。ほんまかどうか、わからんけど。

 ひと仕事を終えた良太は、パルケ・エスパーニャに向かうバスで、悠々と寝ていた。

首が取れるんじゃないかと思うくらい、揺れに合わせてガックンガックンしてて、周りの子どもから笑われてたけど、ちらっと彼らを見ただけで、意にも介さず寝ていた。

 

 すごいなあ。

 ただただ、思った。

 

 良太は小学生の頃、私以上に、まっすぐ歩けなかった。私以上に注意力散漫で、すぐに道路に飛び出すから、ずっとパーカーを着せられていた。

 母や私が、いつでもフードを引っ張って、無理やりにでも飛び出すのを防ぐためだった。

言葉も慣習もわからない。思っていることをうまく伝えられない。

そんな良太を、私は、助けてあげなければいけないと、きっと心のどこかで思っていた。

 でも、良太は良太なりに、24年間を生きてきて、いろんな「みようみまね」を覚えていたのだ。

 誰に笑われても、憐れまれても、まったく気にせず。

 もぐもぐ食べて、すやすや眠り、げらげら笑い、大人になっていた。

 そして、私を助けてくれた。

 誰にも、なにも、教えてもらっていなかったはずなのに。

 

 もしかして、助けてあげなければいけないどころか、良太は私よりたくましい存在かもしれないと思った。

 たとえば、いまこの世界に、空から宇宙人が襲来してきたとして。

 言葉も文化もわからない宇宙人に、人類はパニックになるだろう。

 争いか差別かが、きっと起こるはずだ。受け入れることは、はねのけることよりはるかに難しい。

 でも、きっと、人類で誰よりもはやく彼らと共存できるのは、良太なんじゃないか。

 だって、良太にとっては、当たり前だったから。

 なにもわからなくても、みようみまねで、なんとかしてきたから。

 なんとかする、という自覚すらないまま、限りなく自由に、生きてきたから。

 そういう、世界規模で強い人間が、身内にいたってことに、感動を隠せなかった。

 

 ずいぶん話が飛躍したので、私のことに戻そう。

 良太の強さを目の当たりにして、私は目が覚めた。人と同じようにできない自分を、迷惑をかけている自分を、恥ずかしく思ったり、情けなく思ったりしていたのは、誰でもない、自分だった。

 他人じゃない。全部を自分のせいだと決めつけて、勝手に落ち込んでいたのも、自分だった。でも良太を見てみろ。当たり前のことをうまくやれなくたって、彼の人生はうまくいってる。楽しくやれてる。楽しくやらない方が、損なのだ。両替するために、コーラだって飲んでいいのだ。

 とんでもなく楽しい旅行を終えた時。私はなんとなく「ああ、もう大丈夫かも」と思った。その直感はあたっていて、少しずつ、少しずつ、大丈夫になった。

 それからしばらくして、私は会社へと復帰した。良太のみようみまねで、くよくよ悩むことをやめてみた。人の目を気にすることをやめてみた。

 

 あの時、良太が買ってきたコーラは、一口も私にくれなかったけど。

 もしかして両替っていうより、自分がただ飲みたかっただけじゃないの、ってちょっとだけ思ったけど。

 宇宙人の襲来を心のどこかで願いながら、旅を終えた私は、今日も元気に、みようみまねで生きている。


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