【キナリ★マガジン更新】風呂待ちの祝歌

 

わたしの弟は風呂が好きだ。
そりゃーもう大好きだ。

実家じゃ、なかなか出てこなかった。

おぼれとんちゃうかワレェと覗きに行くと、
ぷかぷか浮かびながら「いやん」と笑う。

弟がうらやましい。

だって、わたしなんて風呂につかると、その日あった無様なサムシングが次々と思い起こされて落ち込むし。体育座りでうつむいて、コールドスリープから目覚めた人間みたいになるし。

なんべん入っても、あんなに愉快そうな弟よ。30歳にもなって、泡でゲラゲラ遊べる弟よ。おそらく前世はカニだろうな。

風呂ってのは、でかければ、でかいほどいい。

温泉なんて贅沢言わない。
銭湯でも万々歳。

だけども、弟はダウン症だ。

ひとりでは銭湯に入れない。

世の中のいろんな事情をわかっている方ではあるが、仕組みのほうはまだわからないようだ。

やったことがあることはできる。
やったことがないことは、やってみせねばできない。

山本五十六を地でゆく弟なのだ。

いつだって弟を銭湯に連れていってやりたい。けれども我が家は父を亡くしてから、他に男がいなかった。

男湯に入れる者おらずんば、弟にロッカーの使い方やタオルの借り方を教えられず。

貼り紙の字を読めぬ弟には、初見が無理ゲー。

以前、弟と旅行したら、泊まったホテルに大浴場があった。

「いきたい」

と弟が言うものの、どうにも難しそうなつくりだった。

「しゃあない しゃあない」

全日本聞き分け選手権があれば優勝まちがいなしの、弟のさっぱりしたほほみが切なかった。

姉ちゃんがさあ、兄ちゃんだったらよかったよな。


ところが。

先日、ふたりで遊園地に行くつもりで、泊まったホテルで。

「いきたい」

大浴場のデカ看板の前で、弟が言った。

「おお、ええやんか」

なんだろう、正月で浮かれたからだろうか。乗り気で応じてしまった。冗談だと思っていた。

「じゃ!」

男湯のれんの向こうに堂々消えていった弟を、ぽかんと見送った。


えっ……行ってもうた……。

我に返った。

「で、電話!なんかあったら電話して!」

叫んでみると、クレヨンしんちゃんのような返事が聞こえた。弟はスマホを持っていた。

しばらく戻ってこないのを確認して、わたしも女湯のれんをくぐった。

何よりも先に、ロッカーを凝視。

よかったあああ!
100円玉入れるやつじゃなかった!

グルグルのビヨーンがついた鍵をひねる。
ひねる。
ひねる。

わたしは青ざめた。
これ思ったより、ひねらんと開かんがな。

弟が開けられなかったらどうしよう。
今ならまだいい。まだ助かる。
でも風呂あがりに開けられなかったら一巻の終わりだ。

詰んだ弟が、真っ裸で外まで出てきたら。
逮捕です、逮捕。

ああ……。
お願いします。
男湯にいる、どっかのおじさん。

弟が困っていたら、助けてやってください。
ロッカーの開け方を教えてやってください。

どうか、お願いします。

やさしい弟なんです。

昨日だって、うちの犬の首輪をこっそり外してたんです。なんでそんなことしたんかを聞いたら、

「あついって いった」

って答えたんです。暑いって言ったらしい犬も弟の足元で、すやすや寝てたんです。そういうことをしてやれるんです。

だから、ほんの少しでいいんです。
弟にやさしくしてやってくだせえ。

祈りながらスポーンと服を脱ぎ、わたしは浴場に向かう。タオルを積んだ棚があった。弟はこれ気づけるだろうか。

めっちゃ怖い入れ墨のおじさんでも歓迎します。

どうか今日のこの一瞬だけ、両津勘吉みたいな人情を、弟にくれてやってください。気まぐれをください。

助けてやってほしいなんて、図々しいことは言いません。

ただ、ちょっと、弟の目の前で、棚からタオルをひらりと取ってみせてくれたらいいんです。

「あっ、これで、拭いたらええんや」

って、気づかせてくれるだけでいいんです。

弟はうまくしゃべれないけど、人を見て学ぶのは得意だから。人生をアルゴリズム体操で乗り切ってるから。


電話は、まだ鳴ってない。


身体を洗いながら、
「だいじょうぶかな……」
気が気じゃなかった。

まだ肩に泡がついたまま、立ち上がって、更衣室に駆けた。スマホを見た。着信がなくてホッとした。

髪を洗っても、湯船につかっても、空耳で着信が聞こえたような気がして、何度も更衣室と往復した。もはや交互浴。サウナなしで人は整える。


ぐわんぐわんしてきた頭で、ふと思い出す。

もう十何年も前のことだ。
あの頃の弟は、まだ小学生だった。

初めてうちにやってきた男のヘルパーさんが、
「スーパー銭湯に行きましょう」
と、弟を誘ってくれた。

父が亡くなってから、弟は外の風呂に行けなかった。だから弟は、前の晩からずっとウキウキだった。

母が用意したタオルをだいじそうに抱えて、ヘルパーさんと出かけていった。

でも、弟はやたらに早く帰ってきた。
しょんぼりして、部屋に閉じこもってしまった。

母が大切にたたんで持たせたタオルは、乾いてフワフワのままだった。

ヘルパーさんは弟を銭湯に連れていかなかったのだ。

行ったと嘘をついて、入口で引き返してきたらしい。苦情を入れたらすぐに飛んで辞めたので、なんでそんなバカなことをしたのかは知らない。

なにも言わず、ぎゅっとくちびるを結んでうつむく弟が、わたしはもう悲しくて悔しくて、たまらなかった。


いま、弟はちゃんと、あったまっているだろうか?


苦い記憶を噛みしめていると、

「ここ、ジャイアンツが遠征する時の定宿なのよ」

「へえーっ!だからトロフィーがあるの!」

マダムのおしゃべりが聞こえた。

読売巨人軍。
そうか、じゃあ、巨人軍の皆さまでもいいです。

どうか弟が風呂で困っていたら、助けてやってください。わたしは阪神タイガースびいきでごめんなさい。こんなことなら、ジャイアンツびいきで生まれてきてもよかった。

でも弟は、まだひいきがないのです。強いて言うなら大谷翔平です、大谷翔平は多目に見てやってください。

弟ったら本当に、風呂が大好きなんです。
もっともっと、入らせてやりたいんです。

一日の疲れが吹っ飛ぶようなふつうのビバノンノな喜びを、味あわせてやりたいだけなんです。ふつうでいいんです。


お願いします、神様。


湯船の横に置いてある、なんかバリ島の神様みたいな謎の石像と目が合った。なんだお前は。


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