【小説】未開封の夢(全文無料)

 

【あらすじ】弱っていくことは、受け入れることも、見守ることも、きっとどちらも難しい。ネットショッピングにハマってしまった祖母と、終活アプリを作る孫による相続をめぐる物語。(17000文字、読了まで20〜30分)


「祖父は最期の一年で……片づけることが愛だと、教えてくれました」

おれが言うと、ビジネス誌の記者は手を止めた。

息を吐き、うるんだ目で、深くうなずいている。

「立つ鳥跡を濁さず、ですね」

「まさに。おれを育ててくれた祖父は、そういう人でしたね」

祖父の勝彦(かつひこ)――カッちゃんは、病気を告知されたあと、身の回りのものを一気に片づけた。

将棋盤も、釣り竿も、ジャズのレコードも。趣味が人生のような人だったのに、迷いはなかった。

金になるものは売っぱらい、残ったものはきれいさっぱり捨てた。

「弁護士だったので、遺産で家族がもめるのはイヤってほど見てきたんでしょうね」

カッちゃんが亡くなったあとの片づけは、終点・墓行きの高速ベルトコンベアにでも乗せられたんかと思うぐらい、なんの苦労もいらなかった。

カッちゃんは合理的で、正しかった。

なにより愛だったと、おれは思う。

黙り込んでいると、

「その経験が、いまの事業につながっていると?」

記者に促された。

「はい。思い出を残して、ものを手放すための仕組みです」

終活という言葉が生まれてから、十年以上もブームは続いている。

おれが開発したのは、いまや高齢者も当たり前に持つようになった、スマートフォンのアプリだ。家でかさばっている紙や物、思い出の品を写真に撮ってデータ化し、アプリに保存する。いつでも思い出を見返せるから捨てやすくなるし、AIが買い取り価格や業者を提案する機能もある。

人生の終わりを、家族と安心して迎えるための仕組みだ。

「アイデアは地味なんですが、地方のショッピングモールに協力してもらって、終活の講座をひらき続けたのが好評で……」

「ああ! ぼくの母親も行って、動画も冊子もわかりやすいって大喜びしてましたよ」

「ありがたいです。説明書みたいなキッチリしたもんを作るのが、昔から得意なんです」

「お祖父さまである勝彦さん譲りなんですね。いやあ、地道な努力が功を奏しましたねえ!」

起業して二年目、30歳。

アプリのユーザーは順調に増えて、
ついに、ビジネス番組の小さな特集にも出る。

うまくいってると思う。
少なくとも、外から見れば。

「では、今日うかがった話をもとに、番組の構成を練りますね。追加の撮影をさせていただくかもしれませんので、近くご連絡します」

テレビ局からの取材を終え、ビルを出ると、スマホが震えた。

祖母の佐智江(さちえ)――サッちゃんからのLINEだった。

『こんでええ』

老眼だと、長い文章を打つのが面倒らしい。
怒ってるんかと一瞬思うけど、これはサッちゃんの優しさだ。

『もう新幹線のきっぷ取ったし。
 これから東京出て、夕方に病院つく』

『ほな いえ よって』

『家? なんで?』

『ほけんしょ』

『ウソやろ?
 また保険証忘れたん?』

既読無視。

『はよマイナンバーカード
 作っとけて言うたやん』

既読無視

『持ち歩くんめんどいんやろ?
 スマホ一台で楽ちんなるのに』

『🦂』

おれは立ち止まり、メガネを押し上げる。
小さな絵文字をしげしげと眺めた。

ああ、サソリか。

……だからなんやねん。

愛想のないサッちゃんが、サソリのごとく威嚇する姿が浮かぶ。これ以上、余計なことを言ってくるなという拒絶を最短で伝えてきた。

おれは諦めて、スマホをしまった。



新大阪駅に着いて、地下鉄と路面電車を乗り継いだ。

下町の十字路の角にある、元たばこ屋の木造住宅がおれの育った家だ。

昔は店主のサッちゃんと常連客が、昼でも夜でも、タバコをのみながら談笑していた。サッちゃんの腰が悪くなり、閉業した今は、からっぽのガラスケースがみすぼらしい。

軒先の植木鉢の底から、合鍵をつまみとる。

(保険証を持ち歩くんが怖くて、このガバガバのセキュリティは平気って、どんな防犯意識やねん……)

玄関の引き戸をあけた瞬間、視界が急に圧迫された。

――ものが、多すぎる。

色とりどりの傘が、値札をつけたまま、傘立てに突き刺さっている。

靴箱の上には、ラッパーが肩に乗せているのでしか見たことないほど長いラジカセ。一台ならいいが、隣にはもうひと回り小さなラジカセが鎮座している。
……ラジカセって子ども産むんか?

どちらも使われた形跡はなく、新品のままホコリだらけだ。

廊下には、ネットショッピングの通販会社のロゴが印刷された段ボール箱が、砦のごとく積み重なっている。湿気でふにゃふにゃ、開封されていない箱まである。

荷物は届いたら即確認、即片づけ。そういう主義で一人暮らしをしているおれには、この光景は何度見ても耐えがたい。

玄関は広い土間になっていて、キッチンがある。

すぐそばの窓が、タバコ屋の店先だ。めずらしい間取りなのは、サッちゃんが料理をしながら常連客とおしゃべりしたいからで、よく、かき揚げだの筑前煮だのを大盤振る舞いしていた。

昔、カッちゃんは仕事から帰ってくると、決まって

「何屋やねん、ウチは」

そうぼやきながら、まんざらでもない顔で、宴会に混ざっていた。カッちゃんが裁判で弁護に立った日には、大抵、サッちゃんがそうするのだった。

当時は大活躍だったガスコンロと流しも、今は寂しげにくすんでいる。

ぴかぴかのフライパンが二つ、そこに並んでいた。

これは、あれだ。何年か前、驚くほどくっつかないと評判になったやつだ。新品のまま、保護フィルムも剥がされていない。

(……使ってへんやん)

カッちゃんは亡くなり、常連客も減り、サッちゃんは80歳になった。

ひとり分の料理は面倒だし、何より火事が危ないからと、レンジと炊飯器ぐらいしか使ってないって言ってたのに。

戸棚を開けると、似たようなサイズのフライパンが、きっちり三枚重なっていた。傷もなければ、焦げつきもない。

買って、
置いて、
使わない。

カッちゃんが亡くなってから、突然、サッちゃんは、これを繰り返しはじめた。

ネットショッピングにハマッてしまったのだ。

おれが帰省するたび、ものが増える。

フライパンを片づけるのはあきらめて、和室へ向かう。カッちゃんの憩いの場だったそこは、健康グッズで埋め尽くされていた。畳には、巻いたままのヨガマットと、空気の入っていないバランスボールの皮が大小ふたつ。

ふすまに立てかけてあるのは、

「……竹馬ァ!?」

思わず声がもれた。

タバコ屋も料理も続けられなくなるたほど腰の弱った身体で、こんなもんに乗れば、骨折必死である。健康グッズが健康被害をもたらすなど、本末転倒だろう。

ただ、やっぱり、どれもこれも使われた気配はない。

竹馬だって、足を置く板はビニールで覆われたまま。

(……さっきまで終活を語っとったヤツの実家がこのざまなんて、口が裂けても言えんわ)

数時間前の取材とのギャップに、軽く目まいがした。

おれはスマホを取り出して、

『また増えとる』

と、サッちゃんにLINEを送った。

既読無視。

『ひとつ買うんやったら、
ひとつ捨てろって』

既読無視。

『しんどいんやったら
おれが片づけたるよ』

『🦂🦂』

――増えた。

ため息が出る。

カッちゃんの仏壇まわりだけは、聖域のように何もなくて、安心した。

「すぐ出なあかんから、線香はあとで堪忍な……」

お鈴を鳴らし、手を合わせる。
仏壇の下棚の小さな引き出しを開けた。

印鑑、通帳、保険証。
サッちゃんの大切なものは、全部ここにある。

口元を真一文字に結んだ顔で、遺影のカッちゃんが門番みたいに守っていた。小さく鼻がふくらんでいる。これがカッちゃんの精一杯な笑顔だ。

「――カッちゃん。こんな家になってもうて、居心地が悪いやろうけど、もうちょっと見守っててな。おれがどうにかしたるから……」

サッちゃんの保険証を取り、立ち上がった。



病院の受付で名乗ると、サッちゃんの病室を教えられた。

廊下の突き当り。
四人部屋の一角、カーテンが半分だけ閉まっている。

「……また、ええのが届くねん」

サッちゃんの声だ。

「サッちゃん、そういうの見つけるんうまいなあ。どうやってんの?」

もう一人の声にも聞き覚えがあった。
サッちゃんの顔なじみ、クリーニング屋のトッ子さんだ。

「これや、これ」

「ああん! わたし、電話と天気予報しかよう使えへん!」

「んなもん、かんたんや。ええサイトがあるんよ」

「テレビショッピングよりもええのん?」

盗み聞きするつもりはなかったのに、二人が楽しげに話しているから、反射的に足を止めてしまった。

「テレビはもうあかん。みのさんやないと、ほしくならん」

「サッちゃんは、ほんまにみのさん好きやったもんねえ……」

みのもんたは週に一時間しかテレビでモノを売らなかったが、インターネットは二十四時間・年中無休でモノを売る。みのもんたさえ不老不死でいてくれたら、我が家は平和だったのかもしれないと思うと悔やまれる。

「今度はな、ハンドミキサー」

「えっ」

「トッ子ちゃん、あんた、こないだ泡立て器がもうしんどいって」

「言うたけど……」

「ほな、うちのん持っていき」

「いやん。悪いわ」

遠慮するトッ子さんへ、サッちゃんが急にもったいぶって声をひそめる。

「……すごいで。ホイップクリームが1分で、できんねやで」

「うっそお……!」

「朝に頼んだらな、明日には届くねん」

「はっや!」

トッ子さんが素っ頓狂な声をあげた。

隣のベッドのおじいさんが、呻きながら寝返りを打つ。

「カラダもゆうこと聞かんようなって、朝から晩までなんもないのに、気ぜわしなるだけの毎日やと思ってたけどな。これが届く思たら、一日がピンと張るような気ィすんねん」

トッ子さんが、はああ、と感心する気配がした。
我慢できず、おれはカーテンを引いた。

「なに巻き込んどんねん」

自分の声が思ったより病院に強く響いて、少し後悔した。

「あらまーっ! 立派んなってえ……」

パイプ椅子に座ったトッ子さんが、パアッと顔を明るくした。

手には花柄の杖が握られている。あのトッ子さんも杖を使うようになったことを知って、時の流れを感じた。

サッちゃんはベッドで背中を少し丸めながら、いつものように、ちょこんと座っていた。思っていたより顔色もよくて、おれはホッとした。

「おれ、水ぼうそうって、子どもがなるもんやと思ってたわ」

「あたしゃまだまだピンピンに若いからな」

清々しいほどの仏頂面で、サッちゃんが言う。
啖呵のキレも健在だった。

呆れるおれの代わりに、トッ子さんが膝を叩いて笑った。

「せやけど、入院って聞いた時は、心臓止まるかと思ったわ。老人の水ぼうそうって怖いねんから……」

「ふん。大げさや」

心配するトッ子さんに、サッちゃんは鼻を鳴らした。これでも、病院にかかった夜はかなり弱っていたらしい。

電話口で当直医から聞くには、運動量が減り、免疫力が落ちた老人がかかりやすい病気とのことだった。

おれは、ポケットから保険証を取り出す。

「こういうのって、退院してから持ってきても許されるんとちゃうか?」

「アホ。そしたら全額払わなあかん」

「あとから返ってくるやろ」

「たとえ病院相手でも金の貸し借りはせえへん」

「ネットショッピングで使いまくっとるくせに、よう言うわ……」

「あたしが貯めたお金を、どう使おうが、あたしの自由や!」

言葉に詰まった。

たばこ屋をやっていた頃、常連客のひとりから頼まれて、サッちゃんは生命保険のパンフレットを店に置いた。サッちゃんは、性格がキツいけど世話焼きで、毎日のように誰かの人生相談に乗っていた。

売り込むつもりはなかったようだけど、なりゆきで生命保険の話が弾むこともあって、サッちゃんはコツコツと仲介料をこづかいにしていった。

カッちゃんが残した金はきっちり残して、少しずつ生活費に充てているらしい。だから、おれは言い返せない。

「……ほな、ウチはこのへんで」

トッ子さんが、気まずさをごまかすように、杖を取った。

「あんた、いつまでコッチおるんや」

「……どうせ退院の荷物持ちがいるやろ。明後日まで仕事休んだわ」

「よっしゃ。ほな明日、ハンドミキサー渡したって。トッ子ちゃんの絶品ケーキ、あんたもよう食べさせてもろうてたやろ?」

「いやん!よしてよ、サッちゃん。何年前の話よー」

気乗りしないが、うなずくしかなかった。
トッ子さんはお礼を言い、杖をつきながら病室を出ていった。

サッちゃんとおれだけが残った。

沈黙に耐えきれず、おれは、枕元にある紙袋を見て「それなに?」と聞いた。

「トッ子ちゃんのデコポンや」

「へえ」

「食べるか?」

「いらん」

「ビタミンは、とらなあかん」

サッちゃんは、ベッドの柵にフックで引っかけてある、ちりめん布の巾着をひらく。見覚えのない白い器具を取りだした。

「……なんや、それ」

「ムキムキムッキー」

呪文か?

「包丁なしで、皮むけんねん」

「たかが皮むくだけで、大層やな」

無駄にツヤのあるいい素材と、凝ったデザイン。よく見れば、筋肉ムキムキのミカンのキャラクターが金色で刻印までされている。高そうだ。

「これ一本で、デコポンもハッサクもパイナポーもむける。お得やろ?」

サッちゃんは歌うように言いつつ、デコポンと交互に見て、固まった。

「……どう使うん?」

「こうか」

「ちがうな」

「ほな、こっちか」

折りたたまれている器具を逆さにして、また固まった。そしてサッちゃんは、手でズブリッとデコポンに穴をあけた。

結局、素手かい。

「使い方も知らんもん、よう買うなあ」

つい、ふふっと笑ってしまう。

「そのうちわかる」

「そのうちが一生来んから、家があんなことなるんやろ」

語尾が少し強くなった。

「ネットでポンポン買うて、使わんもんばっか増やして、サッちゃんは何がしたいねん」

サッちゃんは、デコポンを膝の上に置いた。

「何って」

一拍あけて、

「届くんが楽しみなんや。あんたに迷惑かけてへん」

軽く言い放たれ、おれは唇を噛んだ。

「おれ、いま、テレビの話がきてるねん」

サッちゃんの眉がぴく、と動いた。

「この仕事思いついたんはカッちゃんのおかげやから、たぶん、実家も撮影したいって頼まれることになると思う」

「……聞いてへんで」

「いまの家を見せるわけにいかん。おれが起業したんは、その、終活を助けるサービスやし」

「はんっ。終活ゥ?」

サッちゃんは、目の前の青二才を吹き飛ばすかのようにせせら笑った。

限界集落の壮絶な暮らしから、ひとり大阪に出てきて、たばこ屋を切り盛りし、結婚してからも弁護士の夫に甘えることなく、酸いも甘いも飲み込んできた。

そんな豪傑のサッちゃんからしたら、おれの言葉は生意気にしか映らない。

でも、ここで折れるわけにはいかなかった。

「大切な時やねん。あんな、ものだらけの部屋を映すわけにはいかん。頼む。いらんもんは捨ててくれ」

「いらんもんなんかない!」

ジャッ。
カーテンが勢いよく開いた。
隣のおじいさんが、目を吊り上げていた。

あわてて謝り、声のトーンを落とす。
パイプ椅子にも、腰かけなおした。

サッちゃんはそっぽを向いたままだった。

「……テレビのことだけちゃう。おれは、サッちゃんが――」

声が少しうわずって、震える。

「なんや。あたしが心配やってか? 余計なお世話やで」

「わかっとるわ!」

急に目の奥が熱くなって、眉間に力が入った。
サッちゃんをにらむ。サッちゃんもおれをにらんだ。

「サッちゃんが元気なんはわかっとる。でもな、いつ地震がくるかわからんし、つまずいて転びでもしたら……」

なんとか平静を保てるよう、声を落とした。

「……ええかげん、ふさわしい暮らしをしてほしい」

説得するつもりが、情けないほど、

「おれ、なんか、間違ったこと言うてるか?」

弱々しい声が出た。

サッちゃんの考えていることがわからなかった。

老いたことを、サッちゃんはすんなり受け入れたはずだった。

家業を閉じると決めたのも、料理をやめておかずの宅配に頼ると決めたのも、サッちゃんだ。たばこ屋の看板を降ろした日、名残惜しむ常連に「ここらが潮時や。ボヤでも起こして、孫に迷惑かけたないしな」と、冗談めいて言い放ったのもサッちゃんだ。

(それなのに、どうして、ものを増やし続ける?)

いま、サッちゃんは不機嫌そうに、口を結んでいる。

「カッちゃんだって、おれと同じこと言ってくれると思う」

「あんたは、あの人とそっくりやもんな」

「そうやで。だからわかる。カッちゃんは、趣味が命やったのに、きれいさっぱり捨てていった。あれは愛や。カッちゃんのおらん世界で、なんも苦労せんようにって……サッちゃんとおれへの愛やった」

「愛、なあ……」

サッちゃんはうつむいたまま、

「あたしと違って、トッ子ちゃんは旦那の葬式で、ぎょうさん苦労したらしわ」

とつぶやいた。

「あの旦那は、なんもかんもテキトーやったやろ。なんの片づけもせんままポックリ逝って、あとから借用書も出てきたんや。やれ銀行や、葬式やいうて、トッ子ちゃんは寝るヒマもなくて」

その話は知っていた。

あまりにトッ子さんが手続きに追われて大変だったから、サッちゃんが一肌脱いで、まるで親戚みたいにテキパキと仕切ったから、今でも感謝されているのだ。

「トッ子ちゃん、忙しゅうて、悲しむヒマもなかったんやて」

「そうやろな。だからカッちゃんは……」

「うらやましい」

「……え?」

サッちゃんは鼻から抜けるような笑いを漏らして、窓の外を見た。口元がかすかに歪んでいた。

「あたしら、なんもすることなかったな」

一瞬、言葉の意味がわからなかった。

でも、なにか、みぞおちの奥を鈍器で殴られたように感じた。

カッちゃんの葬式の日を思い出した。

棺も花も鯨幕も写真も、完ぺきに用意されていた。サッちゃんは黒い紋付きを着て、沈んだ面持ちで、挨拶するだけでよかった。それが喪主らしいふるまいだった。

なんの苦労もなかった。
その分、悲しみが押し寄せるのも早かったけど。

悲しむべき時に悲しめたおかげで、カッちゃんの幕引きは気高かったねと、称賛に切り替わるのも早かった。誇らしさがカッちゃんを喪った日々を慰めてくれたことを、おれはありがたく思っていた。

(――でも、サッちゃんは、そうじゃなかった?)

投げやりに口角を上げるサッちゃん。

「……カッちゃんはなんでも先に行きすぎた。立派やけどな。」

置いてけぼりにされた子どもみたいな眼だ。

「あんたもカッちゃんによう似とる」

胸の奥がつかえて、返事に困った。

「あのう、そろそろ面会終了のお時間ですので」

看護師さんが割って入ってきた。おれはそそくさとパイプ椅子を片づけて

「明後日、迎えにくるから」

逃げるように、病室を出た。

「あの……いま大丈夫ですか?」

さっきの看護師さんから呼び止められて、おれは自分がボーッとしていたことに気づいた。頭の中がいっぱいで、無意識に待合ロビーのベンチに座っていたらしい。

天井の白い蛍光灯に目を細めながら「はい」と、小さく答えた。

「お孫さんですね。佐智江さんについてご説明したいのですが、お母さまかお父さまは……」

「いません。おれが、祖母と祖父に育てられたんで」

看護師さんはハッとして

「失礼しましたっ!」

と言った。

「ええとですね、お年も召されていますので慎重に運動機能や認知機能のほうも検査させていただいたのですが……」

カルテが、ぺら、ぺら、とめくられる度に、口内で唾液がたまった。

「何も問題ありませんでした。ホント、しっかりされている方で」

――よかった。

安心できたはずなのに、まだ胸の奥はつかえて重いままだった。

駅へ向かい、路面電車に乗って、実家に向かう。

(……さて、あの家のどこで寝よかな)

暗い気持ちで布団の置き場を考えながら、窓に映るおれの顔を眺めた。
カッちゃんを思い出さずにはいられなかった。




あれは、カッちゃんの命に期限がついた、春のことだった。

押入れからレコードや本を手にとっては、

「……うん」

そうつぶやいて、ひとつずつ上へ重ねた。

礼を尽くすようにお別れしたものを、種類ごとに紐で縛るのがおれの役割。

「将棋盤ひとつで、遺産争いの裁判沙汰になりよった家族もおったわ」

カッちゃんが、将棋盤を撫でながら言った。病気になる前は、店先で将棋を打つのが、カッちゃんの休日だった。

「形見になるん?」

「本柘の年代モンは200万ぐらいするんや」

「すげっ。これも?」

「アホ。これは初めて顧問やらせてもうた社長から譲り受けたもんでな。ただ、まあ、今やったら5万ぐらいにはなるんちゃうか」

「もったいな! おれがもらってもええ?」

おれが声を上げると、カッちゃんは目を丸くした。

「お前、将棋すんのか?」

「せえへん」

「悪いこと言わんから、やめとけ」

箱に入っていた駒をひとつ、名残惜しそうにつまんで、カッちゃんは埃を息で吹いた。その横顔を見ると、いやでもよくわかってしまう。カッちゃんの眼と頬はずいぶんくぼんで、暗い影が落ちていることに。

「けど、こんないっぺんに捨てるん、しんどないん?」

恐る恐る、おれが聞いた。

「手に入れたんも業なら、手放す業も引き受けなあかん。いつだって理にかなった道はしんどい。……しんどいから選ぶ価値があるんや」

駒の箱を閉じる指が、かすかに震えていた。

カッちゃんがふと目線を上げて、やさしい眼で見つめる先には、サッちゃんがいた。

「あんたはなんでも急やなあ。捨てるんかて、簡単ちゃうねんで!」

隣の部屋から、畳をきしませて、のっしのっしと歩いてきた。

この頃のサッちゃんはまだ、恐ろしいほどの健脚だった。

「これっぽちの箱で入るかいな!」

グチグチこぼしながらサッちゃんは、みかんの空箱をバサッと置いた。
そして、和室に広がっている品々を見回して、

「……ほんまにどれもこれも、いらんのか?」

不満げに、口先をとがらせた。

「これなんか、まだ使えるやないの」

しゃがんだサッちゃんが拾い上げたのは、彫刻刀のセットだった。

病状がまだ軽かった時、手のリハビリになるからと、カッちゃんがハンコづくりで愛用していた道具だ。凝り性で、年賀状の干支ハンコを彫ったときなんて、なかなかの腕前だった。

「道具は使われてナンボや。おれの道連れで腐らせたらバチあたる」

カッちゃんが、そっと手を伸ばした。
もうハンコを彫れなくなった手だ。

「縁起悪いこと言いな!」

サッちゃんは怒った。

「もう決めたんや」

しばらく視線をぶつからせて、サッちゃんは、あきらめて手を離した。
カッちゃんの頑固さは、サッちゃんが一番知っているのだ。

「……うん」

カッちゃんはうなずくと、彫刻刀をみかん箱に入れた。厳かな手つきを見守ることしかできなかった。

「そうや!」

パンッ。
突然、サッちゃんが手を叩いた。

「店の前で、蚤の市でも開こうや」

「お前、そんな、みっともないこと」

カッちゃんは、口をぱくぱくさせた。

「なにがや! カッちゃんの道楽にいくらかかってると思ってんの。二束三文でも持ってってもうて、タバコの一箱でもついで買いしてもろたらちょっとは儲けが出るわ!」

仏頂面のまま、サッちゃんは両手を投げ出すようにバンザイした。

「ぜんぶ売っ払って安心したら、貯金も寿命も増えるやろ!」

カッちゃんは、呆気にとられたあと、

「……そうやな、その金で葬式はええ寿司でも取ってくれ」

照れくさそうに、縁起の悪い冗談を言ったので、すぐさま、サッちゃんに容赦なく、どつかれた。

蚤の市は土曜に開かれた。

常連客が集まって、計画どおりの大賑わいだった。
だれも言葉にはしなかったけど、カッちゃんの厳しい病状を知っていたので、餞別代わりにと気前よく買っていってくれた。ものに宿るカッちゃんの思い出話にも花が咲いた。

夜になると、大入りの御礼で、サッちゃんが宴会を開いた。

魚屋に持ってこさせた真鯛やホウボウを、サッちゃんが自慢の出刃包丁で鮮やかにさばいて、カッちゃんが大切に飾っていた古伊万里の大皿にドカンと乗せて振る舞った。そのせいで売上は赤字だった。

でも、あれはいい時間だった。
サッちゃんがつくりあげたんだと思う。

いつもなら早めに寝床へひきあげるカッちゃんが、その晩は遅くまで、赤い顔で酌を受け続けていた。

サッちゃんは小さな体で、ダムを作るビーバーみたいにせっせか駆け回りながら、笑っていた。カッちゃんのことをだれよりも好きだから、だれよりも笑っていた。それでみんなも笑って、明るい空気のままに、カッちゃんと最期を過ごせた。

その半年後、カッちゃんは旅立った。

カッちゃんの死をきっかけに、サッちゃんはタバコ屋を辞め、料理を止め、駆け回ることも止めた。それはサッちゃんが前向きに選んだことだと思っていた。

でも、サッちゃんが豪快に笑う顔も、ずいぶん見ていない。



次の日。

昼前に鳴ったピンポンで、やっと目が覚めた。
あまり寝つけなかったせいだ。

寝ぼけ眼で玄関へ行く。

配達員の青年が勝手知ったる顔で、土間まで入ってきていた。足の悪いサッちゃんが、そうしてくれといつも頼んでいるのだろう。

「あっ、どうもー!佐智江さん、大丈夫っすか?」

「は……い……」

「よかったー! ぼく、毎日カオ合わせとったから、気になって気になって!」

元気すぎる声が頭に響く。
受取りサインのためにペンを探していると、

「いつも使ってはるハンコがありますよ」

「ハンコ?」

「その上に」

配達員の視線を負って、下駄箱のラジカセを見た。操作ボタンの溝と溝の間に、ハンコがちょうど納まっていた。

「カセット入れるところに朱肉も」

音楽聴かんからって、どんな使い方しとんねん。サッちゃんに呆れながら、おれは伝票にハンコを押した。

『サ
 チ
 ヱ』

楕円で囲まれた丸っこい字。ヱのそばには『おじゃる丸』に登場する黄色の小鬼にそっくりの絵も寄りそっている。

これはあれだ。昔、偶然つけたテレビに映ってて、サッちゃんの生き写しやって、カッちゃんが騒いでいた小鬼だ。

「これ、いいですよね。旦那さんがリハビリで作ってくれたとか」

ハンコをまじまじと見つめるおれに、配達員が言った。

こういうものも、カッちゃんは何もかも捨てたはずだったのに。

爽やかに汗をぬぐって、帰っていく配達員を見送った。

届いた荷物はふたつだった。どちらかがハンドミキサーだ。

開けようとすると、

「ごめんくださあい」

今度はトッ子さんがやってきた。

「そろそろ届く頃やって、サッちゃんが連絡くれて」

完ぺきなタイミングだ。熟練のネットショッパーぶりを見せつけられた。

「ここにお邪魔するんも久しぶりやわ……」

トッ子さんは懐かしそうに目を細め、

「ずいぶんさみしくなってもうたけど、落ち着くもんやねえ」

たばこ屋だった窓のあたりを眺めていた。

「あ、これ」

伝票にハンドミキサーとある箱を渡す。

「うわあ。こーんなに小さくなったんやねえ。昔はこれも重くて、しょっちゅう腱鞘炎なったもんや……」

トッ子さんは驚いていた。

昔からお菓子づくりが趣味で、パウンドケーキや苺大福などをたくさん持ってきてくれた。サッちゃんの料理とあわせて、たばこ屋の集まりは食いもんに困らなかった。

「おれが受験生やった年、腱鞘炎やったのにクッキー焼いてくれて」

「あった、あった」

懐かしそうにトッ子さんが言う。持っていた杖をいったん置いて、持ってきた紙袋にハンドミキサーの箱を入れようとする。

「そっちのは?」

もうひとつの箱も、同じ通販会社のロゴ。

「……本格中華鍋、って書いてあるな」

中国映画で、食堂のおっさんがチンピラを撃退するために使うような、大げさな鉄鍋が入っていた。またガラクタ予備軍がきてしまった。

「へーっ! 中華?」

トッ子さんは感心した。

「サッちゃんはさすがやなあ、チャレンジ精神がちゃうわ」

「いやいや。よう使わへんもんばっか買ってるだけで大迷惑」

おれがぼやくと、トッ子さんはリスみたいにつぶらな目を、もっと丸くした。

しまった、と思った。

プライドの高いサッちゃんの面目を潰してしまったかもしれない。

「いや……一応、いつか使うとは言うてるけど……」

ところが、トッ子さんが口にしたのは、

「やっぱり、そうやったんや」

意外にも落ち着いた一言だった。

「知ってたん?」

「前にな、サッちゃんが、ちらし寿司の桶を買うたから、みんなで手巻きパーティするで! って、ご機嫌で誘ってくれてんけど……あれから全然、お誘いもないから……」

チラッと、トッ子さんがキッチンに目をやる。ものが積まれているだけで、使われている気配はない。

「手巻きって、一から作ると大変なんよ。酢飯をうちわでブワーッと扇いだり、具もたくさん煮たり焼いたり、巻くのもひと苦労やし」

「いまのサッちゃん、そんなことできへんと思う」

おれが言うと、そっか、そっか、とトッ子さんは目を伏せた。

「……買いもんがやめられへんサッちゃんの気持ちがな、わたし、わかる気がする」

「トッ子さんはちゃうやろ」

「ううん。わたしも、もうケーキなんか焼いてへんから」

トッ子さんは、杖を取った。

「この足やし。お菓子作りもしんどくてね」

「……ごめん。サッちゃんにいらんもん押しつけられとるんやったら、おれから言うとく」

「ちゃうちゃう」

トッ子さんがあせって手を振る。腕にかけた紙袋がガサガサ揺れた。

「またケーキ焼きたいって言うたのも、楽しみにしといてねって言うたのも、わたしなんよ」

トッ子さんが視線を落とす。

「ふしぎやね。ここに来るまでは、これでわたしがケーキ焼いて、サッちゃんがお茶いれて、身体なんかどっこも痛くないみたいにバタバタして、仲よしのみんなで集まって……きっとステキなことが起こる! いちばん楽しかった時みたいに、何もかもうまくいく! って」

トッ子さんが、泣きそうに笑った。

「頭の中では、ずっと、昔に戻れたみたいにワクワクしてるの」

紙袋の取手が、皺とシミだらけの腕に食い込んでいた。軽量化しているはずのハンドミキサーですら、ズシリと重たい現実を、思い知っているみたいだった。

「ああ、やだ。トシいったら弱音も増えるわ」

「それでもおれは、サッちゃんの弱音は想像できへんな」

「そうねえ、あれは強い人やもん。せやけどね、みんなの世話を焼くのが好きで、強くなっていったのがサッちゃんやろ?」

そうかもしれない。

記憶の中でサッちゃんはいつも、誰かを励ましたり、支えたりするために、怒った顔で駆け回っていた。やさしいサッちゃんのそばに、若いカッちゃんと幼いおれが、いつも一緒にいた。

「足も腰もだんだん悪うなって、世話焼く人もどんどんおらんなって……弱っていくことが、一番怖いんとちゃうかしら?」

なにも言えなかった。

ハンドミキサーのお金を置いて、トッ子さんは帰っていった。杖をこつこつ鳴らす音が、たっぷり時間をかけて、夕陽の向こうへ遠ざかっていった。

おれは残された中華鍋の箱を、キッチンへ運んだ。

本当は、ぜんぶ捨ててやろうと思っていた。

入院は心配したけど、チャンスでもあった。サッちゃんが帰ってくるまでに、未開封のものはまとめてゴッソリと。だから、三日間も休みを取った。

勘当も覚悟していた。
それぐらいしなきゃ、サッちゃんはわかってくれない。

だけど、どうしてもゴミ袋に手を伸ばせない。黙って捨てれば、取り返しのつかない何かごと捨ててしまう予感がする。しかし、家をこのままにしておくわけにもいかない。

(――そうだ)

伝票に印字されていた、通販会社のカスタマーセンターに電話をかけた。

「すみません、中華鍋の返品についてお伺いしたいんですが」

捨てるよりはまだマシだと思った。

「ご返品ですね。ではまずお申込者さまのお名前を」

返品だ。
捨てるよりは、多少、心が痛まない。
最悪、サッちゃんが怒ったら、また買いなおせる。

……はずが。

「――そちらの商品は、一ヶ月ごとに一個、一年でバリエーション豊かなフライパンやお鍋を十二個お届けするという特別なコースでして……」

電話口の女性の説明に、耳を疑った。

「は? 十二個!?」

「初回は寿司桶、今月は中華鍋で、来月はすきやき鍋でして……季節ごとに本格派のお料理をお楽しみいただけます」

唖然とした。
同時に、新品のフライパンが三つも戸棚にしまってあった理由がわかった。

「一年分、すでに前払いでちょうだいしておりますので、返品も中止もお受けできかねます。たいへん恐れ入りますが……」

つらつらと抑揚のない声で、取り付く島もない。
この手の問い合わせはきっと、日常茶飯事なのだろう。

「以前も同じご要望をいただいておりますので、心苦しいのですが、どうかご理解たまわりますよう……」

「待ってください」

「はい?」

「前にも返品の連絡を?」

電話の向こうで、カチャカチャとキーボードを叩く音がする。

「はい。通話記録をお調べしたところ、同じお申込者さまからご連絡いただいております」

電話を切ったあとも、混乱していた。

まさか、あのサッちゃんが。
カッちゃんと同じぐらい、頑固なサッちゃんが。

ぼやっと浮かび上がってきたのは、腕によりをかけて料理する光景に胸を踊らせて注文したものの、届き続ける鍋やフライパンを前に、困り果てて、返品の相談をしているサッちゃんだった。

「……お客さま? お電話つながっていますでしょうか?」

返事を忘れているうちに舌が乾いて、おれはつばを飲み込んだ。



次の日、サッちゃんは予定通り退院した。

朝9時に病院へ迎えに行くと、廊下で看護師さんとばったり会った。
ウチの祖母が世話になりましてと頭を下げかけ、目が止まった。

制服の胸ポケットに、見覚えのあるものが刺さっていた。

「……あ、これですか?」

「佐智江さんがくださったんです。餞別に果物ってのはよくあるんですけど、剥く方は初めてで、笑っちゃって」

ムキムキムッキーだ。

捨てようとするとサッちゃんは怒っていたのに、意外だった。よっぽど、使いこなせなかったのが堪えたのかもしれない。看護師さんがはにかんだ。

風呂敷包みを両手に抱え、腰のまがったまま、ちょろちょろ挨拶しながら院内を歩き回るサッちゃんは、そういう妖怪のようだった。

タクシーで家に着くと、ドッと気が抜けたのか、

「ああ、しんど……」

と玄関にどっかり座った。

「布団敷いてあるから、ちょっと横になってき」

「あんたは?」

「夜の新幹線や。今のうち帰り支度しとくわ」

和室で上着を脱ぎ、仏壇にデコポンを供える。

お鈴を鳴らすと、隣の部屋から、

「カッちゃん、ただいまあ……あいたたた」

と、布団に入ってゆくサッちゃんの声が聞こえた。仏壇のある部屋と、サッちゃんの寝室は、ふすまを隔ててつながっている。

そういえば今まで、線香あげるのを忘れていた。

「なあ、線香どこ?」

「ええ? そのへんにあるやろ……あだっ」

「いい、いい。探すから」

四つん這いでべたべた探っていると、丸まったヨガマットの隣に、桐の箱が転がっていた。お歳暮でもらう高級な線香って、こういうのに入ってるよな。

開けてみると、そうめんが入っていた。

面食らいながら、ふたを裏返すと、
『通販限定 三輪産最高級 流しそうめんセット』
とあった。

もう冬も間近なのに、そうめんの束はひとつも減っていない。それどころか、いったい何年前の代物なのか、乾いてかぴかぴだ。

「おい、さすがに食べもんはあかんて。バチ当たるて言うてたやん」

ふすまの向こうにぼやいたが、返事はない。
眠ってしまったのか、狸寝入りか。

ばかばかしくなって、おれも仰向けに寝転がった。
朝いちから動いていたせいで、急に眠気がきた。

「……―――あーっ!元気そうでえっ!」

やたらと元気な声で目が覚めた。
あの宅配員だと、すぐにわかった。

飛び起きて廊下に出たけど、いたのはサッちゃんだけだ。

大きな箱をなんとかして運ぼうと……いや隠そうと、足先で角を蹴ってためしてみたものの、なんともならずにいるようだった。

「……それ」

サッちゃんが、いたずらを咎められたような顔をする。

「貸して」

「ちゃうねん、これはずっと前の」

「なんでもええから」

箱に手を伸ばすと、サッちゃんが立ちふさがった。

「ミラクル★マーメイドDX……」

サッちゃんの細い足の間から、派手な蛍光色の創英角ポップ体で描かれた文字がのぞいたので、思わず読み上げてしまった。なんで通販の商品名は、こうもアホらしいのに、気持ちいい発音をしてるんだ。

「腰にええらしい」

「これが?」

「ほんまやで! 腰の筋肉がこう、人魚みたいにふるふる〜ってな、まったく歩かれへんくなった人が一日で歩けるようになって! 四国のお遍路もしてるんよ!」

「歩けるようになりすぎやろ。ほんまかよ」

「ほんまほんま」

ネットショッピングの謳い文句をすらすらと語るサッちゃんは、それはそれは、自分の思い出話でもするかのように楽しそうだった。

「じゃあ、使ってみるか」

おれがあっさり言うと、サッちゃんは目を丸くした。

和室の仏壇の前で、箱を開けた。

カッちゃんに見守られる形になってしまったけど、そこしか空いてる場所がないので仕方ない。

『ミラクル★マーメイドDX』は、機械の重そうな台座に、くぼみのあるクッションがくっついていた。

電源を入れてみると、モーターが低く唸り、クッションが左右に揺れはじめた。じつに荒々しい速度だった。

説明書の表紙には、

『腰痛改善! DXはスウィング速度が三倍にパワーアップ!』

とある。

荒ぶるクッションを、おれとサッちゃんは見下ろしていた。

「なにが三倍や。サッちゃんの腰の寿命、三分の一に砕け散んで」

目でクッションの動きを追いながら、サッちゃんは、

「いつか使う」

小さくつぶやいた。

おれはマーメイドDXのスイッチを止めて、ついでに上着を脱ぎ、着ていたシャツのボタンも外した。

「なにしてんの」

「おれが使う」

「……はあ?」

「ええから」

クッションに尻を乗っけて、スイッチを入れる。
見た目よりも揺れがきつい。

「速いて!」

「動画はこんなんちゃうかったんよ」

「消費者庁を疑う速さやぞ。これ調節できんの?」

振動に合わせて、喋る声も揺れている。アプリ開発でデスクワークで酷使されたおれの、ガチガチに固まった腰が悲鳴をあげる。揺れながら、手探りで調節できる機能を探した。

「こうか」

「ちゃう」

「これかも」

サッちゃんも這いつくばって、マーメイドDXをあちこち探り回す。おれの荒ぶる腰にはね飛ばされて、サッちゃんがドテッと畳に転がった。

「サッちゃーーーーーん!」

わあわあ言いながら、おれたちは本気だった。仏壇で、カッちゃんは呆れているだろう。

「これやこれや! これ!」

畳から復活したサッちゃんがひねったダイヤルのおかげで、揺れが穏やかになった。

「そうそう、動画もこんな感じやった」

満足げにうなずく。なるほど、この動きは確かに、海をひれで優雅に泳いでるみたいだ。最初は痛かった腰も、だんだん、気持ちよくなってきた。

「なるほど、これは人魚やわ」

「そういう劇、ちーちゃい頃にやってたなあ……」

ふいに、サッちゃんが懐かしがった。

「あんたは歌う昆布の役やった」

「なつかしっ! あったあった! いま思たら、リトル・マーメイドやのに、ごっつい和風やな……」

「役が足りんかったんやろ」

おれは思い出すのに時間がかかったけど、小学校の学芸会のことだ。
カッちゃんと、サッちゃんが、ふたりで見にきてくれた。

まわりの両親より老けているからみっともないと遠慮して、体育館の一番後ろに立っていた。でも、舞台から見るおれが一発でわかるように、カッちゃんは大きく手を振って、サッちゃんはぴょんぴょん跳ねて、居場所を知らせてくれた。

逆に目立ってるんが本末転倒で、おもしろくて、おれは緊張しなかった。

『よくみて すてきね
これでもっと かんぺき
なんでも もってる
わたしは すべて』

あの日、コーラスした歌は、はじめの方だけ覚えている。

波に乗って運ばれてきたガラクタを、人魚が大切そうにかき集めて、友だちに自慢するシーンだった。でも人魚の本当の願いは結局、ガラクタでは叶わなかった。

おれは和室に積みあがる段ボールの塔たちを、下からながめていた。

「これでサッちゃんの夢は、叶ったんか?」

サッちゃんは、説明書を読むフリをしながら、

「腰さえようなったら、また料理できる思ったんや。上等なフライパンもあるし」

「サッちゃんの料理に助けられとった人、いっぱいおったもんな」

でも、今はもういない。あの頃の時間は戻らない。
サッちゃんだって、わかっているはずだった。

「……今度こそ、やめよって思うんやけどな。腰の痛みがひどかった日なんて、気がついたら新しいもんを見てまうわ」

ぽい、と説明書を捨てた。

「ネットショッピング、おもろい?」

「おもろい」

わかりやすく悪びれないのは、サッちゃんの強がりだと思った。

ネットショッピングは、サッちゃんの生きがいだった。希望を見失わずに、この余生を送るための。届くのは希望じゃなくて、どれもこれも、使いこなせない絶望だったとしても。

買うのをやめて捨てろと急かすのは、サッちゃんに生きる希望を持つなということと、同じだった。

『ミラクル★マーメイドDX』は、やっぱり、サッちゃんには使いこなせそうもない。おれがもらっていいかと聞くと、サッちゃんはびっくりしながら

「うん、いらん」

渋々、承諾してくれた。

「これは?」

ついでにおれは、和室の壁に立てかけてある竹馬を指さす。

「それはまだ使う」

「ほな、今度また来るから。調子ようなってたら使おうや」

「……あんた、まさか、竹馬もほしいんか?」

「いるかこんなもん! 取材がくる前に片づけてほしいだけや!」

当然のように、おれは言った。

「サッちゃんが買うてしもたもん、ぜんぶ使おう。こんなんもうええわって、諦めつくまで、なんぼでも付き合ったる。そんで一個、一個、片づけたる。……めんどくさいけど」

「でも、これ」

サッちゃんが、竹馬を手に取った。
パカンッ。きれいすぎるほど縦に割れた。

「流しそうめんにも使えるんやで」

まさかの……2WAY仕様……!

「ほな夏までは、しまっとこ」

サッちゃんはニヤリと笑って、竹馬を抱いた。

夏がきたら、たばこ屋の窓をあけて、そこから流しそうめんをする羽目になるだろう。ベチャベチャになって、手間だけかかって食べづらくて、あの頃の常連客はだれも来なくて、きっと何もかも、サッちゃんが思い描いた夢とは違う夏になる。

帰り支度を終え、玄関に出ると、まだ段ボール箱が残っていた。ひい、ふう、みい……とまだ開けていない夢の数をかぞえて、頭の中で四季が巡った。

サッちゃんは、ゆっくりと、老いを受け入れていく。
がっくりきて、やつあたりされて、言い合いにもなるかもしれない。

それでも付き合っていくのが、おれなりの相続なんだと思った。




 
コルク