【キナリ★マガジン更新】月曜の朝の喫茶店通いを筋肉と呼ぶ
「高齢の家族を介護がはじまりそうで、悩んでいます。わたしの家の近くに引っ越してもらいたいんですが、わたしが遠方の実家まで通ったほうがいいのでしょうか?」
トークイベントで質問をもらった時、ある景色を思い出した。
二十歳のとき、わたしは大阪に住んでいた。朝は大学で眠りこけながら講義を受け、終わるなり飛び出して、ベンチャー企業の社員としてアホみたいに働いていた。
7時から24時まで、毎日フルマラソンみたいな生活をして、手足の生えたボロ雑巾だった。ちょっとでも眠れるように、大学にも会社にも近い大阪に引っ越したのだ。
とはいえ、無給だったわたしが借りられる部屋などない!
それで、ばあちゃんの家に住みはじめた。
大阪の谷町にある、築70年の長屋だった。屋根も床も常に傾いているため、ズッコケ長屋と呼ぼう。天井裏はネズミのラブホテルだ。
この頃のばあちゃんは、神戸のわたしの実家と、ズッコケ長屋とを行き来していた。母が歩けなくなった時から、家事を代わるためにそうしていた。
日曜になれば、ズッコケ長屋にばあちゃんが帰る。シニアカートを杖代わりにして、ヒィヒィフゥフゥいいながら、神戸の山から下りてくる。
「泥棒が入って火ィでもつけられたら、えらいことやから」
ばあちゃんの脳内では、泥棒は物をぶん盗った上に、放火までする容赦なき大悪党と決まっていた。長屋の住人は、隣近所がひとつ屋根の一蓮托生なので、火事を何より恐れ、憎む習慣があった。
「これからはわたしが住むんやから、そんな大変な思いまでして、帰ってこんでもええんちゃうか?」
わたしが言うと、
「まあまあ、会合もあるさかいに」
ばあちゃんがつぶやいた。
会合だと?
月曜の朝。
ばあちゃんはズッコケ長屋から、いそいそと出かけていく。近所のばあちゃん友だち数人と、喫茶店でモーニングを食べるらしい。これを会合という。
雨の日も、風の日も、花粉舞い散る日も、いそいそと会合へ行くので、ちょっと気になって、わたしも連れていってもらうことにした。
「あんたも来るんかいな。そうかいな」
ばあちゃんのリアクションは、ウユニ塩湖よりしょっぱかった。
こう言っちゃなんだが、わたしはけっこう、歓迎されるつもりでいた。大学生にもなった孫が、ばあちゃんたちの会合に顔を出すなんて、孝行やないかと。
あら〜!奈美ちゃん、大きゅうなって!あんたが産まれた赤十字病院、こないだ改装されたんよ!んまあ、あの頃の面影が残ってるわあ!お父さん似やねえ、そうそう、女の子はお父さん似のほうがええんよ!はい、これ、かわいらしい奈美ちゃんにお年玉ね!
……このように、四方八方から機銃掃射のように、褒めちぎられるつもりでいた。
ばあちゃんに連れられ、明らかにやる気のない店構えの喫茶店に入ると、そこには能面のような顔をした老婦人が三人、肩を縮こめ合って座っていた。なんだよ、その、妙に背の低い椅子と机は。
「これ、奈美ちゃん」
ばあちゃんがわたしを指差すと、彼女たちは、
「あら、まあ……」
「おはようございます……」
と、ぽつ、ぽつ、ゆるんだ蛇口のようなあいさつをしてくれた。そのあともずっと、そのテンションだった。
スペシャルゲストの孫にも一切触れず、旬の話題に花を咲かすでも、耳寄りの噂があるわけでもない。彼女たちは、無言だけを避け、相槌に相槌を打ちながら、カッスカスのトーストを食んでいた。
なんだ、これは。
わたしはカルチャーショックを受けた。
大阪のおばちゃんというのは、もっとこう、どうでもいい話を3時間ワイドショーぐらいの尺で、トップスピードのまま繰り広げるもんではなかったのか。一度食べ終えたはずの話題を「それでいうと、さっきのはさ」で、胃から戻し、永遠に咀嚼し続けられる牛の怪物みたいな存在ではなかったのか。実際、母はそうだったのに。
ばあちゃんたちは、なにも話していないも同然であった。
「今日もこのあと、病院行くねん」「わたしも」「うちも」「湿布がなあ」「うん」「あれなあ」「坂を降りていくやろ」「降りると病院が」「ねえ」
一時が万事、こうである。
楽しそうならまだいいが、まったく、楽しそうな節がない。全員が真顔なのだ。会合は一時間きっかりで終わり、散り散りになった。
「ばあちゃんよ。この会合って、楽しいん?」
「楽しくはないわ」
楽しくないんかい!
これだけのために、わざわざ大阪まで来るばあちゃんのモチベーション、どないなっとんねん。
会合のあと、ばあちゃんはトボトボ歩いて、八百屋に行き、巾着に入った中華麺を買った。いつもそうだった。幼い時にわたしが一度だけ好きだと言ったそれが、ばあちゃんの定番の置き土産だった。
一週間に一度が、二週間に一度になって、一ヶ月に一度になって、ばあちゃんは少しずつ、大阪へは帰ってこなくなった。
目まいがひどいと言って、短い検査入院をしたのが、決定的な断絶だった。ばあちゃんは、神戸の実家に生活の根を降ろすことになった。
もともと、感情表現が超薄い人だったから、特に悲しんでいる様子はなかった。あの会合に未練があるようにも、とても思えなかったし。
神戸で、ばあちゃんは外に出なくなった。
うちの実家のマンションは、山を切り開いて爆誕したニュータウンにそびえ立っていて、どこへ行くにも、とにかく坂道がすごかった。家を出てから転んだりでもすれば、そのままゴロゴロゴロ転がり続け、ふもとのマックスバリューまで辿り着けるという、アホのスーパーマリオみたいな逸話もあった。
最初のうちは、何日かに一度、ばあちゃんはマックスバリューに歩いて通っていた。わたしに、ギトギトのカレーパンを買ってくるためだ。
だんだんと足腰が痛み、面倒くさくなってきたのか、ギトギトのカレーパンはわりと早い段階で、家から姿を消した。
ばあちゃんは、引きこもりになった。
引きこもっていても、掃除に、料理に、のど自慢の応援に、ばあちゃんはセカセカ動き回っていた。だけど、もともと忘れっぽいばあちゃんの、忘れっぽさはどんどんひどくなり、数年経って、認知症という診断が下りた。
お医者さんが、
「こういうことは多いんですよ。急にガックリきてね。大阪におってはったら、もう何年かは、認知症の認定は遅らせられたかもしれませんね……まあ、かなり前からちょっとずつ、進行はしてたみたいやけど」
と言った。
ばあちゃんはニコニコしながら、診察室の椅子に腰かけていた。
大阪にいた時のばあちゃんは、楽しそうには見えなかった。実際、楽しいと思ったこともないらしい。喫茶店の会話も、八百屋の会話も、中身は、なんでもなかった。だからばあちゃんは、惜しむことなく、それらを簡単に捨ててくれた。神戸に住む、足の不自由な母と、障害のある弟と、忙しいわたしのために。
でも、認知症を遅らせるならば、ばあちゃんはあの時間を手放すべきではなかった。
同じ曜日の、同じ時間に、同じ場所へ行く。楽しくなくても、相槌を打つ。トーストを食む。巾着入りのラーメンを買う。30年以上、続けてきたことは、続けてきたというそれだけで、ばあちゃんを自動で動かす筋肉になっていた。
友人もいない、坂道だらけの神戸に住むということは、ばあちゃんの筋肉を麻酔して削ぐことだった。
だからといって、そこまで真剣に、わたしは後悔できない。
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