【キナリ★マガジン更新】つまりヨーグルトのおすそわけとは何だったのか

 

あらゆる流行は、岩田のおばちゃんによってもたらされた。

小学生の頃、同じマンションに住んでいたご婦人である。二児の母でとにかく明るく、すべての動きが俊敏で、異常にでかい声でひそひそ話をするのが岩田のおばちゃんだった。

恐るべきは、そのトレンド察知能力。

まだスマホもSNSもない時代。岩田のおばちゃんはなんの前触れもなく、マンション中の主婦に空前の大流行を巻き起こし、とことんハマらせた後、数ヶ月で幻のようにスパッと忘却させるのを数ヶ月おきに繰り返した。

消費社会の打ち上げ花火師みたいな女だった。

マンションには当時、300人をこえる主婦がひしめいていたので、岩田のおばちゃんの経済効果は計り知れなかったと思う。

岩田のおばちゃんの伝説的な所業は、

「ちょっとちょっとちょっと!カスピ海ヨーグルトって知っとる!?」

だった。

ちなみにわたしはマンション中の誰よりも早く、パソコンを使いこなしていた。朝から晩まで、ダイアルアップ接続でインターネットの海を縦横無尽に泳いでいたにも関わらず、岩田のおばちゃんのもたらす『にがりダイエット』も『カスピ海ヨーグルト』も知らなかった。

インターネットの方が情弱!

そんなわけのわからん時代があったのだ。


カスピ海ヨーグルトの流行はすごかった。
というか、怖かった。

学校から帰ると、マンションの広場で岩田のおばちゃんを筆頭に、母たちが輪になって、

「作りすぎたからもらってや〜」

嬉しそうにキャッキャと何かをわけあっていた。タッパーの中身は、白くネバついていた。

「なにそれ」

「ヨーグルトの種菌やで」

菌!?

やれ手を洗えだの、うがいをしろだの、菌の撲滅にはうるさかったはずの母たちが、今や笑顔で菌を交換しあっている。この異様さは筆舌に尽くしがたい。父親はともかく、母親ってなんか、菌から一番遠そうな生き物じゃないですか。

不気味にもほどがある。

「この菌を牛乳に入れたら、ヨーグルトが無限に増えるねん」

「増える!?なんで!?」

半泣きで聞くと、母はちょっと黙った。

「……体にいいらしい」

なぜ菌を入れるとヨーグルトになるのか、それが無限に増え続けるのか、それは一体なんの成分で体のどこに効くのか、わかっている者は誰もいなかった。広まり方がほとんど祟りである。

しかしあらゆる謳い文句の中で“健康”は最強のワードだ。黒酢も寒天もそれで流行った。マンションの各家庭にてヨーグルトは爆発的に量産され、交換に次ぐ交換により、

「隣町の消防署の渡辺さんの奥さんの種菌が良いらしい」

どこの誰なんだそれは。

岩田のおばちゃんがブローカーとなり、ヨーグルト錬金術師のカリスマまで出現していた。渡辺さんもまた、ただの主婦にすぎないのに。

カスピ海ヨーグルトは、全国的なブームだったらしい。

わたしはヨーグルトがあまり好きではなく、とろとろの舌触りもぼんやりした酸味も苦手だったので、まことに嬉しくない流行だった。


……と、いう記憶が浮かんだのは、この間、サンフランシスコ出張でレストランを訪れたからだった。

旅の最初、わたしは食事にまったく期待してなかった。

アメリカのレストランなんて、円安で物価は高いし、だいたい味が大雑把だ。ニューヨークとハワイで思い知っていた。

外食なんてもったいない!
夜な夜などん兵衛で乗りきったる!

ところがどっこい、サンフランシスコはすさまじかった。レストランのごはん、めちゃくちゃおいしい。

一年中ずっと日当たりが良く、とれたての野菜や魚介が手に入るし、移民も多いのでいろんな国のエッセンスが引き立っていて、シリコンバレーの周りは有名なIT起業家がひいきにするレストランも多い。

これは嬉しい誤算だった。
日本で見かけない料理なんて、口に運ぶまでワクワクする。

中でも、ギリシャ料理屋の『Evvia』が最高だった。

ほどよくガヤガヤした雰囲気も、どことなく居心地のいい家庭っぽいインテリアがいいし、

なんてったって、おいしくて……。

ギリシャ料理って、まったく想像できてなかった。こんなにおいしいと思わなかった。古代の料理なので、調理法は焼いたり煮たりするだけでシンプルだった。魚や野菜がおしゃれに丸ごとドーンって出されるので楽しい。

味つけがだいたいハーブとオリーブオイルなんだけど、ここで食べたオリーブオイルが史上最高においしかった。もはやジュースやないか。

あまりに我々が至福でポヤポヤしてるんで、ギリシャ人の店員さんが話しかけてくれた。

「やあ!まだ食べられそうかい?(ペラペラの英語で)」

「いける!油なのにサッパリしていくらでも入る!(ボロボロの英語で)」

「グリークヨーグルトを混ぜてるからね」

グリークヨーグルト、つまり、ギリシャヨーグルトだ。

もったりして上品な酸味があって、これがパイの中身にも肉のソースにも使われている。これだけでナンボでも食えてしまうのだ。初めてヨーグルトが好きになった。

「グリークヨーグルトって日本ではあんまり食べない?」

「カスピ海ヨーグルトは食べてたよ!」

「カスピ海……ヨーグルト……?」

しまった。
英語の発音がわかりづらかったか?

「それが日本では有名なの……?」

ご存知なかった。

あれ?
日本より、ギリシャの方がカスピ海に近いのに。

店員さんがお皿を下げていった後に、スマホで調べてみた。

なんと、カスピ海ヨーグルトがブームになった国は、日本だけだった。


「え!?」

というか、カスピ海ヨーグルトというもの自体、日本にしか存在しなかった。

「なにごと!?」

平成に日本人の博士がジョージアから持ち帰った菌を、個人的に家で増やして食っていたところ、博士の奥さんが主婦友におすそわけして、主婦ネットワークのみで爆裂に広がっただけらしい。

えっ、じゃあ、あの菌って、もとはその奥さんのやつなのの……!?
それが兵庫の片田舎のマンションに……!?

す、すげえ。

しかも本物のカスピ海沿岸ではマツォーニヨーグルトというのが有名で、日本のカスピ海ヨーグルトとは味も成分もまるで違うそうだ。

す、すげえ。
平成初期って、わけわかんねえ。

水を注ぎにきてくれた店員さんに、

「カスピ海ヨーグルト、日本にしかなかったよ」

と言った。


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