【キナリ★マガジン更新】なにも励まさないノートが、家族を救った

 

事故で植物状態になった人と、そのご家族に会った。24時間ずっと目の離せない状況で、見せてもらった一冊のノートのことが忘れられない。

“お大事に”
“目を覚ましますように”

そういう励ましの言葉は、何も書かれていなかった。ただ毎日、淡々と記録される数字で埋まっていた。

「でも、このノートに何よりも救われたんです……」

嬉しそうに教えてくれたご家族のことを思い出すと、今でも鼻の奥がつんとする。熱い気持ちがこみ上げてくる。

人を救うのは、救おうと思ってさしのべた手ではなくて、そんなつもりはなくとも動かしつづけていた手なのかもしれないな、と思った。

これは、障害や介護の話ではなく、自分では気づかない優しさの話だ。


きっかけは、介護の会社さんから講演を頼まれたことだった。

「うちは重度訪問介護をしていて……」

打ち合わせでポロッと言われた。

「なんですかそれ?」

「重い障害や病気で、24時間ずっと見守りが必要な人のご自宅まで、ヘルパーや看護師がうかがうサービスです」

「そんなのあるんですか!?」

家族がつきっきりで、倒れるまで介護したり、ずっとお見舞いに通いつづけたりするしんどい話はよく聞く。これは救いの光かもしれない。

「……もしよかったら、現場を取材させてもらえませんか?」

ありがたいことに快く受け入れてくださるクライアントさんがいて、ご自宅にうかがうことになった。

ここからクライアントさんの名前や詳細は、プライバシーのため、ぼかして書きます。


日当たりのいい、すてきなお庭のある家だった。

おじゃますると、ふつうのリビングの真ん中にドオオォンッ!と置かれたベッドにのけぞった。病院でしか見たことないサイズだ。絶対に素人が触ったらあかんような機械も置いてある。

男性がひとり、静かに横たわっていた。

中村さんだ。

会社の役員を立派に務めて、惜しまれながら定年退職した。忙しい日々も終わり、これからは奥さんと一緒に日本中を旅行するのが夢だった。釣りも、キャンプも、バイクも、好きなことはぜんぶやろうと思っていた。その矢先、交通事故にあってしまった。

一命はとりとめたけど、重い脳障害が残った。

中村さんは遷延性意識障害、いわゆる植物状態になった。

どんなに悔しかっただろう……と思いながら立っていると、中村さんと目が合った。ドキッとした。

「これから排泄のケアだから、奈美さんみたいなかわいらしいお客さんがいると恥ずかしいのかも」

中村さんの奥さんが、うふふと笑った。

「わたしのこと、わかるんですね」

「お医者さんは、意識なんてないはずって言うけどね。触られていやな時はムッとするし、馴れた看護師さんだとニコーッとするし、感情があるとしか思えないの」

ずっと中村さんに寄り添っている奥さんだから、些細な変化にも気づけるんだと思った。

ヘルパーさんと看護師さんのケアがはじまった。体を拭いたり、クリームを塗ったり、中村さんに優しく話しかけていた。

「わたしがやるより厚木さんのほうが上手なのね。ほら、主人も嬉しそうでしょ」

厚木さんと呼ばれたベテランの男性ヘルパーさんは、照れてはにかんだ。

奥さんはいつもならこの時間は、買い物や友だちとお茶をしに出かけるらしい。

「訪問介護をたまたま知るまで、わたしが自由な時間を持てるなんて、想像もできなくて……」

「病院では教えてくれないんですか?」

「それが、教えてくれなかったのよ……!」

中村さんはこのまま病院で一生を終えるはずだった。片道一時間かけて、病院へ通いつめていた奥さんは、その時のことを「希望も何もない、わたしはただ自動的に生きてるだけだった」と振り返った。

たまたま同じ患者家族の集まりを見つけて、フラッと参加したら、訪問介護を教えてもらったのだという。

「主人を自宅に連れて帰ってあげられるなんて、夢にも思わなくて。その日から気持ちが止まらなくて、子どもたちに相談したら、大反対されちゃった」

奥さんは、うわーっとお手上げのポーズをした。

「ずっと介護してたら倒れちゃうとか、人生が終わってしまうとか、当たり前だけどすごくわたしのことを心配してくれて。でもねえ……」

肩をすくめて、奥さんは苦笑いした。

「夫婦って理屈じゃないのよ。いざとなったら、わたしの体なんか壊れてもいいって覚悟したし、一生懸命働いてくれた主人をいたわるのは、当然の愛だと思ったのね」

夫婦は理屈じゃない。
重く響いた。

「とにかく家へ連れて帰ってあげたい!としか思えなかった」

奥さんの意志は固く、訪問介護の打ち合わせがはじまった。

あれもこれも自分ひとりでがんばるから、どうか病院を説得してくれないか、と構えて早口になる奥さんに、

「わたしたちは“チーム中村家”として、ここに来ました」

開口一番、ヘルパーの厚木さんが言ったそうだ。

「中村さんだけではなく、中村家のみなさんが全員安心して、幸せに生活できることを一番に考えましょう!」

奥さんはへなへなと腰の抜ける思いだったらしい。中村さんは退院し、自宅で訪問介護を受けることになった。

「主人の会社の人たちも毎日のように顔を見にきてくれて……ああ、連れて帰ってきてよかったって心の底から思った!」

中村さんのベッドの柵には、見事な千羽鶴が二束も三束も飾ってある。、壁も一面、写真や寄せ書きだらけだ。

遠い神社のお守りもあるし、ひときわ目立っていたのは、でっかいでっかいタペストリー。

“中村さん 絶対回復! 社員一同”

金色の糸の刺繍。中村さんがどんなに人望があって、愛されている人なのかひと目でわかる。

「こんなド派手なお見舞い、初めて見ました!」

「でも、なんていうか、返事に困ってしまうこともあって……」

「どういうことですか?」

「みなさんは“回復しますよ!”とか“きっと目が覚めますよ!”って励ましてくれるのね。もちろんその気持ちはとっても嬉しい。だけど、もう、精一杯がんばって回復してくれたのが、今の主人なのよね」

中村さんは命が助かる見込みも薄かったし、いま自力で呼吸ができているだけで奇跡的な回復をした。自宅で介護が許されるほど安定しているのも、お医者さんを驚かせたほどだ。

「何十年間も眠り続けていた患者が目を覚ましたっていう話を、みんなは信じてるの。もちろん、奇跡はあるんだろうけど、毎日一緒にいれば現実が見えてくる。主人はもうじゅうぶんすぎるほど、がんばってくれてるって」

お見舞いの言葉に、複雑な思いを抱える家族もいる。もらった千羽鶴やタペストリーをひとつずつ、飾りつけていく奥さんの気持ちを想像した。

「なかには“もう来れません”って泣いちゃった人もいて。パワフルで頼りがいのあった主人に憧れてたから、見るのがつらいって………」

しかたないよね、と奥さんは言った。その人のことをまったく責めなかった。

その姿を見ながら、わたしの胸はざわついた。

わたしも誰かに、勝手な思いをぶつけてきてしまったことがあるかもしれない。元通りになりますようにって、相手のために捧げた祈りは、楽になりたい自分のための祈りでもあるのに。祈っているうちはまだよくて、だんだん厳しい現実がわかってくると、受け入れるつらさから逃げたくなる。

無意識の身勝手さを、痛烈に考えさせられた。

「だれも口には出さないけど、もしかしたら、こんなに大がかりな介護を続けるんだったら、はやく楽になってほしいって思うかもしれないわねえ」

そんなことない!……って言いたかったけど、言えなかった。奥さんがこれをあっけらかんと言えるまで、どれだけ傷ついてきたんだろうか。

「だからわたしだけは今のままの主人を愛するって決めたの!」

中村さんを慕う人はたくさんいる。誰もが力になりたいと思っている。だけど、人生のすべてを捧げて、孤独を覚悟して、中村さんに寄り添えるのは奥さんだけだ。わたしは圧倒された。

そして、わたしにはずっと気になることがあった。

「どんな言葉が嬉しかったんですか?」

奥さんは少し黙って、厚木さんのところへ歩いていった。

「あれ借りていい?」

持ってきてくれたのはノートだった。

どんな言葉が書かれているんだろう……?

ドキドキしながら、ページをめくった。
びっしりと埋め尽くされた字に、目を見張った。


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