【キナリ★マガジン更新】よくあることだと言われましても

 

妊娠が発覚してから、産婦人科を予約した。この町の人たちが「絶対あそこ!」と口をそろえる名医のところにした。

口コミもここで産んでよかった、ここ以外考えられなかった、神の手、みたいな評判であふれていた。そんな完全一致することあるんだ。医龍?

受付をすませると、予約したのに三時間待ちだった。

「ささささ三時間!?」

「先生がひとりだけなので、お産が入るとどうしても……」

ほげえ。

それでも待合室はぎゅうぎゅうで、誰も文句言わず、おとなしく待っていた。さすが名医の病院。

やっと診察室に呼ばれるなり、先生が言った。

「検査薬が陽性なら、間違いなく妊娠だと思います。ええと、いまで5週目ですね」

週数!あこがれの週数!ドラマでしか聞いたことなかった単位が、わたしに割り振られている。胸が高鳴った。

「さっそくエコーで赤ちゃんを見てみましょう」

内診台に乗る。むき身の尻と、パッカーンと強制的に開かされる足。今までの定期検診では、この台が本当にいやだった。でも、今日だけは誇らしい。

寝転がったまま右を向くと、白黒のモニターがあった。うねうね動いている。これがエコーってやつか!

おめでとうございます、の一言を待った。待ちに待った。でも、なかなか、なにも言われない。

「ああ……はい……はい……」

カーテンの向こうで先生が、つぶやいていた。それだけで内診は終わった。先生はしばらく無言だった。どうしたんですか、と聞きたい気持ちをこらえた。

診察室に戻り、先生と向き合う。

「排卵した後もあるし、内膜も分厚くなっているから、妊娠はしています。ここの黒い点が赤ちゃんの袋のように見えます」

「あ、あるんや、よかった……」

「でも今回はだめだと思います」

「え」

「5週目にしては小さいです。それと、尿検査の数値もね、ふつうならもっと高いのに」

先生の説明は淀みなかった。表情もなんだか仏頂面で、だから、これが、良い話なのか悪い話なのかすらも、わたしはわからずに感情が迷子だった。

「だから、一週間後ぐらいには、流れるんじゃないかと」

あ、悪い話か。

慣れた手つきで書くグラフは、きれいに落ちていく曲線だった。墜落して途切れたグラフを、わたしはじいっと見つめていた。

「あれ?岸田さんって脂質異常症のお薬も飲まれてますね?」

「あ、はい……家族性の遺伝で……」

先生はデスクにあった『薬辞典』をパラパラめくりはじめ、

「うん、やっぱり、妊娠によくない薬でした。今回は関係ないと思うけど、赤ちゃんにも影響あるはずです。内科に相談しました?」

「いえ……」

知らなかった。もう十年近く飲み続けているたった一錠の薬で、そんな作用があるなんて。

内科の問診票の「妊娠の可能性は?」という欄は、いま妊娠してるかじゃなく、妊娠を希望している時から丸をつけないといけなかったらしい。己の無知に追撃ビンタされた。

「まあ、流産はよくあることです。特に初期はね。昔の人は気づかなかったぐらいなんですよ」

よくあること?

その言葉を聞いた瞬間、目元までこみ上げていた涙を、グッと奥へ押し戻した。

よくあることで、泣いたらあかんから。

代わりにわたしは、へらへら笑っていた。淡々としている先生を困らせないように。余裕です、大丈夫です、の表情を踏ん張って作った。

「質問ありますか?」

「あの、さっき、だめだと思いますって言いましたけど、ここからなんとかなりますか」

「……むずかしいです」

「あはは、そうですよね」

バカなことを聞いてしまい、顔が熱くなった。

「今後も妊活されますよね?早いうちに内科で薬の相談してください」

はい。自分、行けます。すぐ行けます。なんなら、今すぐ行けます。だって、わたし、役所に母子手帳もらいに行こうとしてたんですよ。だから、今日は時間なんて、いくらでもあるんです。

席を立ちながら「そういや、前祝いで炊飯器も買ったな」と思い出し、急に自分がバカみたいに思えた。恥ずかしくてたまらなかった。

待合室に戻ると、

「おめでとうございます!」

看護師さんが別の妊婦さんに、エコー写真を手渡していた。狭い待合室から、どうしたって聞こえてしまう。あの人も、あの人も、言われている。台紙入りのエコー写真を大切そうに握りしめている。

ああ、そうか。わたしは、もらえないんだ。

会計を終えたその足で、内科へ行った。

次の妊娠のために。次の妊娠、次の妊娠。やみくもな希望の言葉だけを杖に、ゾンビのように町を歩いた。

顔なじみの看護師さんが、

「あらーっ!岸田さん!あさイチ観たよお!」

ホッとする笑顔で歓迎してくれた。

「今日はどうしたん?」

「あ、えっと、さっき、妊娠してて……」

言い終わる間に、一瞬、息を飲む音が聞こえた。

「あらっ!あらあらあらっ!おめでとう!いやあん、なんか自分の娘のことみたくうれしいわあ!」

看護師さんは本当に、本当に、喜んでくれた。その時、はじめて、ぼろっと涙がこぼれた。

「ちがうんです、ごめんなさい」

ぼろぼろと嗚咽した。止まらなかった。

「だ、だめだったん、です」

「ええっ!?」

看護師さんは心底驚いた顔をして、

「そんな……あかん……おばちゃん、ひどいこと言うてもたなあ……ごめん、ごめんなあ……!」

大あわてしながら、わたしの背中をさすってくれた。ちがうんです。ひどくないです。わたしがうまく言わなかっただけです。

看護師さんが「どうしよう、ごめんなあ」と何度も繰り返すのが、申し訳なくて余計に涙が出た。こんなに優しい人を傷つけてしまうなんて、不甲斐なかった。

よくあることなのに、泣いてしまうなんて。

わたしってば昔からこうだ。先生に呼び出されただけで、なぜか涙が出てしまうのだ。何もかも大げさなんだ。

……いや、ほんまに大げさなんやろうか?

この猛烈な涙はいったい、どこからきてるんだ。心臓すらも動いていない、家族と違ってまだ何の思い出もない存在が、なかったことになるだけで。なんでこんなに泣けてしまうんだ。

まだ、わからなかった。

家にとぼとぼ帰って、夫のみずきくんに説明した。赤く腫れた目で、よくあることらしいよ、と、先生の言葉を繰り返した。

「そうかあ……」

みずきくんはつぶやいた。意外だった。みずきくんもかなり涙もろいはずなのに、困惑しながら突っ立っているように見えた。

「なあ、いま、どういう気持ち?」

「残念やと思ってるで」

「ほんまのこと言うて」


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