【キナリ★マガジン更新】ごめんなさいを言わずに許される弟が、森の民みたいでうらやましい

 

家には『連絡帳』と書かれたノートが、山のように眠っている。

ボロボロに使い込まれたそれは、母の涙と汗の記録そのものだ。

わたしの弟・良太は、自分のことをうまく説明できない硬派な男だ。家に帰ってきた良太がショボンしてたり、もしくは未知やすえ姐さんのごとく炸裂していたとて、彼の身になにが起こったのか、家族にはわからない。

わからないのは、お互い、つらかろう。

ということで、母は『連絡帳』をはじめた。このノートを開けば、良太がその日、学校で何をして、どんな様子で、なんと話しかければ良いか、一発でわかるという寸法だ。

弟にとっての“ぼうけんのしょ”だ。

保育園、小学校、中学校、特別支援学校、プール教室、福祉作業所、グループホーム……良太が躍り出る舞台にはかならず母の連絡帳が届けられ、かれこれ、26年間。

26年間も!
母は連絡帳を、書き続けている!

実に大変なことだな、と思っていたが。

「ちゃうねん。これ、ありがたいことにな、めっちゃ楽しいねん」

先生たちも、最初はなにを書けばいいのか戸惑っていたらしい。連絡帳界のタモリである母は、連絡帳に綴られたどんな文章も褒めに褒め、教養とユーモアに富んだ返事をしたため、書き手の長所をズルズル引き出してきた。

続けるごとに、連絡帳の文章はだんだん長く、めきめき面白くなっていき、連絡帳を書くための筋肉が各自鍛えられ、連絡マッ帳(チョ)たちが続々とこの世に爆誕した。

良太の平穏で豊かな日々は、連絡帳によって支えられていたのだ。

この件は長くなるので、またどこかで話すとして。

この連絡帳はマジでおもろいので「ちょっとこち亀でも読むか」ぐらいのノリで、わたしも読ませてもらっている。26年間、無料のこち亀が連載されている最高の家庭。

昨日も、何気なく、ペラ……ペラ……して、

『こんにちは。まだ風が冷たいですね。』

福祉作業所の職員さんの日記だった。いま良太はグループホームで生活しながら、平日はそこへ通っている。

弟はこの職員さんのこと、大好きなんだよなあ……どんなホッコリ話が始まるのかな……。

『今日は良太さんが半そで姿で来所されて、そして、部屋の真ん中でシャドウピッチングを開始されました。(野球ボールの絵)』

なにをやっているの?

『シャドウピッチングは、一時間ほど続きまして、途中で職員やほかの利用者さんからお仕事しようとお声がけをするも、うるさい!と怒りはじめてしまいました。(汗)』

本当に、なにをやっているの?

風が冷たいという一文からの、予測不可能な疾走感がすごい。最近のドラマってマジでこんな感じよな。しかしこれは血をわけた家族のノンフィクションなので、血の気が引くわ。

『そのあと、良太さんも冷静になり、やってしまった……と思ったようです。しかし、謝るという選択は決してなさらず、あくまで何事もなかったかのように、皆さんへ話しかけに行かれました。』

これ“追放”されるのでは?

脳裏に光景が浮かんできたので、いったん、彼の行動を整理しよう。福祉作業所は障害のある人たちが集まり、仕事をするところだ。そのド真ん中に躍り出て、一時間もシャドウピッチングに励み、優しく注意されたらば逆ギレ。からの急な陽気。なんだお前は。終わってる時代の阪神ファンか。

手に汗握るとはこのことよ。

『でも利用者さんはまだ、良太さんに怒っておられました。それで良太さんは、その方と早く仲直りがしたいんだ!とわたしまで訴えに来られたので、一緒に行かせていただきました。』

くっ……ページをめくる指が止まらない……。

こんなこと言ったら顔をしかめる人もいるかもしれないが、わたしにとっては、良太が良太自身の居場所でやらかしていることには“わりと他人事”モードなのだ。心置きなく、成行きを楽しんでいる自分がいる。

ぜんぜん似てない弟という存在は、なんでも知っているはずなのに、わたしには真逆の行動をとることで、未知の景色を見せてくれる。これほどおもしろいことはない。

一体、どうなってしまうんだ……。

『やっぱり許してもらえませんでした。利用者さんにごめんねと伝えたほうがいいんじゃないかと、わたしからも良太さんに相談してみたのですが、謝罪という選択肢はなく、あくまで自然修復をしたいようで……その後も良太さんは、何度もその方に近づいて、陽気に話しかけたり、ギャグを見せたり、仲直りを模索されていました。』

謝ってくれよお。

頼むから謝ってくれよお。心から願った。なにやってんだよ。三顧の礼ならまだしも、三顧のギャグでは許されんのよ。

いくら絶叫しても、これは連絡帳。現在進行ではなく、過去完了のできごと。わたしにはもう、いつ殴られても文句は言えないであろう弟の尖りきったアクションを、指くわえて見守るしかないのである。

ここから入れる保険ってあるんですか。

『続けていくうちに、その方の態度もだんだん柔らかくなってきて、おやつ休憩の時間にはすっかり普段どおりで、楽しくお茶されていました!』

あったわ。

「すげえな!」

でっかい声が出てしまった。あの状態からいっさい謝らずに、無傷で仲直りできることってあるんだ。怒らせてしまったお相手の懐の深さには、ただただ、感服するしかない。

あ〜〜〜よかった〜〜〜!

怒涛のエンドロールを流し見ながら、余ったポップコーンを口に放り入れるような余裕をかましていた、わたし。

……よかったのか?

外出中の母に連絡してみた。

「良太がシャドウピッチングで怒られた件なんやけど」

「あ、もう読んだ?やばいよな」

「やばい」

話が早いぜ。

『ユージュアル・サスペクツ、もう観た?』みたいなやり取り。連絡帳である。わたしたちはこのやばさを最速で共有し、考察したくてうずうずしている。繰り返すが連絡帳である。

「自分が悪いのに、怒って、今度は仲直りしたいのに、絶対に謝らないという……どないなんそれは……」

母が頭を抱えていた。ここが母と姉で立場の違うところで、気の毒だなと思う。母はどこまでいっても保護者であるから、連絡帳にて、滔々と謝らなければならない。

考察してみたが、やはり、良太の行動の意図はわからなかった。

本当に仲直りしたければ、彼はさっさと謝るべきだったのだ。何度も何度も足を運んで「なあ?なあ?」とおちゃらけるのは時間がかかるし、なにより、拒絶される度に心もボキボキになるはずだ。

絶対に謝りたくないほど、プライドの高いやつなんだろうか。そう考えれば、理屈では辻褄があうが、どうも納得いかない。

良太は「ありがとう」を、どこでも、誰にでも、しみじみ連発する男なのだ。人が好きな男だ。人に喜ばれるのが好きな男だ。己のプライドを優先して、他人を傷つけるなど、そんなことはしないはずだ。姉の欲目かもしれんが。

考察は不完全燃焼に終わった。


しかし、謎の行動を「すばらしい!」と手放しで褒めてくれた人がいたのである。その人はなんと、今をときめく著名な学者先生だった。


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