【小説】スポットライトのない劇場(全文公開)
今でもおれは、バイト先である団地に足を踏み入れる直前、つい立ち止まってしまう。かつて、袖から舞台に出る直前、照明の具合を確認するときのクセが、まだ抜けてないから。情けない話やけど。
初めて漫才の舞台に立ったときのことは、今でも思い出せる。
ああ、ここが世界の真ん中なんやって。スポットライトがまぶしいんやなくて、自分が光ってるみたいやった。10回立っても、100回立っても、ずっとそうで。劇場が大きくなるたんび、どんどん、どんどん、まぶしくなって、634回立って、そんで、終わった。
おれ、田所光。
芸人やったのは半年前までの話で、今は清掃員のバイト。
スポットライトを浴びることが生きる理由やと思ってたけど、今ではもう、誰からも見られへんくなった。見られへんことに慣れすぎたら、人間、透けていくんちゃうか。体も心も。
時々、むなしくて、暴れ出したくなる。
今日も集合団地の、薄ら暗い階段にこびりついた水垢と苔へ薬液をぶっかけて、水で吹き飛ばす作業をしている。8月も半ば。汗だくで、夏の太陽光に目ん玉を焼かれながら。
こんな昭和バブル期の遺産みたいな団地の階段、きれいに漂白したとて、誰が気づくねん。五階やぞ。エレベーターやなくて、階段使うようなアホ、おるかいな。
団地が海沿いに建ってるせいで、あっちゅう間に雨やら潮風やらで黒ずんで、来年また同じ掃除を繰り返すんやろう。想像したら気が滅入った。
昨日は四階、今日は五階。明日は隣の棟。この団地は十個以上の住居棟が並んでるから、順番に掃除していくだけで、ざっと一年かかる。誰にも気づかれへんのに、せっせと、おれたちは小人みたいに虚しく働く。
階段の踊り場には『清掃中 きけん 立入禁止』って看板が立ってる。わざわざ入ってくる住民はおらんから、仕事を見られたことは一度もない。
「田所ォ、そっちの手すりも、やってええか」
同業者のおっさんが、階段をつかつか上がってきた。手に持った研磨剤のボトルをちゃぷちゃぷ鳴らしながら。
俺とおっさんは、おそろの格好。死んだねずみの色した分厚いつなぎに、ごつい手袋。帽子と防護ゴーグル。吸い込み続けたら死んでまう洗剤から守るための装備は、クッソ暑くて、クッソダサい。
他人との会話を拒絶しやすい見た目なのは、気に入っている。
「おい、返事は」
「あと一段だけ残ってるんで」
「ほな俺がやっとくから、先に水の始末して……」
ブッシャアアッ。おっさんが言い終わる前に、おれは高圧洗浄機を動かした。聞こえなかったフリを貫いて、背を向ける。
「おまえ、仕事は細かいけど、協力って言葉を知らんやっちゃな」
「研修でも教わってないことを言わんでください」
「聞こえとんかいや。愛想も知らんやっちゃな」
おっさんは、ため息をついた。
「それが一番(いっちゃん)いらんでしょ」
おれは、おれが支配する場を明け渡すことが、何よりも気に入らん。たとえバイトの掃除の持ち場ごときでも。やるならやる、サボるならサボる。何もかも丸っと、おれの責任でやりたい。
おっさんもおっさんで、言うだけ無駄やということは、わかっとるらしい。気だるげに踊り場の柵にもたれ、スマホを眺めはじめた。
……待つならどっか行けや、うっとうしいな!
「なあ、シンガポール行ったことあるか。マーライオンの」
「ないです」
「清掃員が大金を稼いでる国なんだってよ」
おっさんの声色は、得意げを通り越して、わざとらしい。イントネーションまで、気色悪い東京弁になった。つまり、いまSNSで流れてきた記事をそんまま読んだんやろう。
「街が美しかったら観光客も増えるって、シンガポールのおえらいさんは予想したわけだ。……なんちゅう立派な!感動させるやないか!」
おっさんの張り上げた声が、階段にこだました。
「いうほど、今の待遇に不満あります?」
「わしはなあ、清掃員の誇りの話をしとんねん!」
「この団地にもマーライオンおったら、金持ちになれたんですかね。へーえ。広場で毎晩、酒盛りしてマーッ!いうて噴水みたいなゲボ吐き散らかしとるガキンチョどもはおるけど」
「そのマーッ! も片づけとらんお前が、えらそうに抜かすなよ」
おっさんが柵の向こうに、親指を向けた。目下には団地の広場。小学生のリレーぐらいはできそうな広さで、外周に、ぼつぼつと置かれとるベンチに、今日も這いつくばっとる情けない男の姿が見えた。
うわっ。
イヤなヤツ、見てしもた。
「ありがたく思えよ。あいつが断ったから、お前がこっちの班に配属されてんやぞ」
団地の広場にいる豆粒みたいな男は、情けなく背中を丸め、今まさに、マーッを片づけとる最中やった。……しょうもな。
定時の17時きっちりに事務所から巡回のバンがきて、くたびれた清掃員たちを呑み込んでいく。
夜の劇場やネタ合わせに出やすいところも、このバイトに決めた理由やった。芸人をやめた今はもう、関係ないけど。
乗り込もうとしたところで、助手席のおっさんから制止された。
「八野(はちの)が、まだやろ」
セブンスターをくわえた顎で、しゃくられた。
「探してこい」
バンはおっさんたちでギッチギチやった。どいつもこいつも、秒でタバコをふかすヤニ畜生め。喫煙すると団地の敷地に戻れなくなるので、これは、おれに八野を探しに行かせる罠だ。
なんでおればっかり……と思うが、逆らえへん。こないだ、面倒やから、クラクション鳴らして八野を呼び出したら、つまらん住民に怒鳴り込まれて始末書を書かされた。あんな面倒はもう、うんざりやった。
「……ええかげんにせえよ、あいつ」
思わず、声がもれた。
できの悪い同僚の八野 優(はちの ゆう)は、いつも、いつも、帰りの集合に遅れてくる。わざとちゃうんか。
八野が遅刻する理由は、火を見るより明らかや。
おれが団地の広場へ引き返すと、やっぱり、八野がいた。
見るからにヒマそうなバアさんに絡まれとる最中やった。またかよ。八野は花粉症の子力士(こりきし)みたいな、ドスコイ体型の赤っ面で、必死に相槌を打っていた。首、もげるんちゃうか。
あれは、苦情やな。
さもなきゃ、愚痴や。
めんどくさ。
八野の持ち場は、他人からよく絡まれる。格好も、薄手のポロシャツにペラいチノパン。おれらとちがって、八野にはプロの重装備は必要ない。八野のワゴンには、ホウキだのデッキブラシだのが 生け花みたく刺さってた。
あいつがやってるのは、日常清掃や。ゴミひろい、落ち葉はき、ゲロながし……そういう誰にでもできる掃除を、誰にでも見られる場所で、毎日、毎日、八野は続けてる。
八野と話し込んでいる、貧乏くさいバアさんは、団地の住人。細い眉につり上がった目からは、こんなシケた団地で余生を削るバアさんの、積もり積もった鬱憤が垣間見える。
ああいう暇な人間は、八野みたいなやつを標的にする。
ゴミくずひとつでも残ってりゃ「ちゃんとせえ」と叱れるし、愛想が悪けりゃここぞとばかりに「どないなっとんねん」と告げ口できる。くだらん人生のストレスを、苦情という皮で正当化して包み、腐り餃子みたいにして、清掃員に食らわす。そら、いくって。いくわ。さぞ気持ちええんやろ。
そんな理不尽にも、八野は、平気で頭を下げやがる。
おれは黙って、木の陰に隠れた。ここで一言、八野を呼べば、やつを解放できるのがわかっていたが、助け舟なんか出したらへん。巻き込まれて、たまるか。
しばらくして、ワゴンをとろとろ押しながら、八野が戻ってきた。
「うわあ」
八野は、おれに気づくなり、おれの足元をじーっと見つめた。
「今日もかっこええのん履いとるね」
昨日の靴が雨に濡れたんで、今朝、靴箱の奥から引っ掴んできた、ただの古いスニーカー。ニューバランス990V3。買ったときはそれなりの値段やったけど、今日の薬剤散布で、あちこちシミもできた。
「こんなもんに、いちいち感心すな」
「ジャスコで買えるかな。色違いやったら、かぶってもええ?」
「そのヘラヘラやめえ!お前がなめられとるから、毎度、出発が遅れるんじゃ」
「へ?なんでえ?」
ずずっ、と八野が鼻をすする。
あかん。こいつは、なんもわかっとらん。
広場のベンチでは、さっきのばあさんがドン座りして、ペットボトルのジュースをちびちびやってた。おれは刺すような視線を向ける。
「広場で食うたり飲んだりしてるやつに、頭なんか下げたらあかんねん。ゴミひとつでも落としてみろや!殺したるからな!って目で睨(にら)んだれ」
「おっかなあ。そんなん、でけへんよ」
「ベロベロベロベロなめくさられるんが、お前だけなら勝手やけどな。おれらの時間まで無駄にしてんねん。わかるか。迷惑なんや!」
「……せや。あめちゃん食べる?」
なめるという単語で思い出したであろう八野が、チノパンのポケットに手をつっこんだ。包みがぐっしゃぐしゃになった、パインアメを俺に差し出した。
「ゴミやろが!」
おれがはねのけたパインアメを、八野は「ちゃうよお」と言って、握りしめた。げじげじ眉毛が、八の字に下がった。
「だって、おっかなくしたら、誰も来てくれんくなるやんか」
「それでええやんけ」
八野はワゴンに詰んだゴミ袋をちらりと見るや、
「ぼくが拾うもん、なくってまうやんか」
荒れたくちびるを、雀みたいにとがらせた。
「……ああ?」
「ゴミ拾うのが、ぼくの仕事やし」
アホやとは思ってた。でもまさか、ここまでのエターナル・スペシャル・アホやとは知らんかった。炎天下でアホを見て、目まいがした。
日常清掃なんて新人向けのつまらん仕事、とっとと卒業して、八野も、おれらと同じ定期清掃の班に入ればええのに。そうすりゃ、めんどい住民から話しかけられることも減るし、バンも定刻に発車するのに。
「八野、あれ、ほんまか?」
「なに?」
「定期清掃やなくて、日常清掃の持ち場にずっとおるんは、お前が選んどるからやって。おっさんが言ってた」
「……うん。ぼくがそうしてって頼んだで」
八野は当然のように言った。
そんなんはきっと、きれいごとやと思う。日常清掃は時給も低いし、はっきり言って、不人気や。アホの八野に、みんなして貧乏くじを押しつけてるだけに違いない。
住民からも身内からも、どんだけなめられたら気が済むんや。八野を見るたび、おれはイライラした。
その時、体にまとわりつくような、生ぬるい風が吹いた。
「あっ」
八野が叫んだ。広場のベンチから、バアさんがヨタヨタ立ち上がるところだった。手を伸ばす先に、空になったペットボトルが転がっていった。
「ちょっと待っといて」
八野が、ダバダバ走っていく。遠ざかるあわれな背中を置き去りにして、おれは踵を返した。付き合ってられへん。
団地前の停留所に、路線バスが止まっていた。扉が開き、人が次々降りてきた。
その列の中に、見覚えのある男の顔があった。ヤマザキやとわかった時、体温が一気に引いてくのがわかった。
「……田所?」
帽子とゴーグル、つけたまんまで来たらよかった。横着したおれを恨んだ。遅れた八野も恨んだ。首筋に冷たい汗が垂れた。
おれと見つめ合って呆然とするヤマザキの後に、ぞろぞろと降りてきた三人の芸人仲間も、口元を引きつらせていった。
「え、まじもんの田所さん?」
「にせもんの田所さんってなんやねん」
「いや、だって、全然見かけんかったから……」
気まずさを無理くり、ヌルッと笑いへ変えようとしてるのがわかった。おれはピクリとも動けなかった。
一番年下の後輩が口を開いた。
「ぐ、偶然ですねえ!」
「……ああ」
「元気そうでよかったです!おれら、今から寄席やるんですよ。ほら、こっちに市民会館あるでしょ、そこで」
そいつは舌がもつれそうなほどの早口で、沈黙を埋めようとしていた。
「村尾っておるでしょ。田所さんもようかわいがってた作家の。あいつが台本書いた番組、けっこうウケてて、こっちでイベントやるんです。あっ……村尾も、田所さんが出てくれたらええのにって前は言うてて……」
「おい、べらべら喋んな」
ヤマザキの低い声が制止した。ピリッとした空気が流れる。おれがおらん間に、ヤマザキが先輩風をびゅんびゅん吹かしはじめとるらしいことは、それだけでわかった。
「気にすんな。こっちの話やから」
こっち、こっち、って、さっきからやかましいな。線でも引いとるつもりか。じっとしとけばええのに、つい、おれは口を開いてしまった。
「番組って、あの、水ダウを丸パクしてバズっとる、しょうもない動画か。雁首そろえて、他人のふんどし締め散らかして、ようやるわ。相変わらず、めでたいやっちゃな」
空気が急速冷却した。冗談や。笑えや。
笑ってるのは、おれだけやった。
「お前こそ」
ヤマザキが、せせら笑った。
「そんな仕事でも、また同じような相方を選ぶんやな」
……は?
ヤマザキの視線を追った。いつの間にか、おれのそばに八野が立ってた。八野は、おれが愉快な旧友を紹介しはじめるかのように、にこやかに待っていた。
おれは八野の存在を無視した。
「んなわけあるか」
「ほな、ピンか。おまえにピンは向いてへんぞ。自分が上に立てるようなツッコミでしか、ネタ書かへんもんな」
「ヤマザキ、やめとけって」
ヤマザキの相方が割って入ったが、
「言わせろや。こいつが何人、仲間つぶしてきたと思てんねん!」
握りしめたヤマザキの拳は、震えたままだった。
「いつもそうや。正解が見えとるみたいな顔で、おれらのこと見下しよって。死ぬほど詰めるくせに、おもんないやつの尻拭いはせんとか言うて、見捨て続けたお前が――」
ヤマザキは一度、つばを飲み込んで、おれの清掃員の制服を上から下まで見た。
「ざまあみろや」
殴ってもよかった。それぐらい許されるやろうと思った。でも、そんな気持ちはみるみる萎んだ。
止めに入ったヤマザキの相方が履いとる靴が、目に入ったからやった。
ニューバランスの990V3。靴の形は同じでも、おれが履いてるのとは決定的に違うところがあった。あっちはこれから舞台に立つために、ぴかぴかに磨かれた靴。こっちはシミだらけの靴。
仲間内で衣装は絶対にかぶらせないと、かつて、こいつらと約束した型番。おれがいなくなった途端、かぶっとるやんけ。でも、自分でこだわったそんな約束すらもおれは、とっくに忘れてた。芸人の仕事には、もう戻れないと思った。
足元が、ぐらっと傾いた。
それから、どうやって場が収まったんか、よう思い出せん。最後まで、誰かがなんか叫んどった気もするし、誰かが頭下げとった気もする。
バンに乗り込むとき、
「田所くんさ」
静かに突っ立ってるだけやった八野が、口を開いた。
「明日からさ、ぼくの持ち場と代わってくれん?」
ぽつんと、言った。
「はあ?」
自分の声やとは思えんぐらい裏返った。八野はほほ笑んだまま、赤くて丸い鼻を、すんと膨らませていた。
そうか。今までさんざんえらそうにしてきた男が、自分より落ちぶれてるのを見たら、そら、態度も変わるってか。
「誰がやるか、ボケェ!」
八野の手から、さっき拾ってきたペットボトルを奪い取ったおれは、おおきく振りかぶった。遠くに、遠くに、ペットボトルをぶん投げた。軽すぎて、なんの手応えもなかった。
カラン、と音がして、二、三度はねて、ペットボトルは茂みに消えた。
ぽかんと口を開ける八野を置き去りにし、おれは走って、乗り込んだバンの扉を強く閉じた。
翌日、団地に八野の姿はなかった。
「風邪らしいわ」
出勤のバンの中で、おっさんが言った。
「代わりの日常清掃は、田所が入ったれ。八野の友情指名やから、断れへんぞ」
なにが友情や。昨日の仕返しとしか思えへんかった。
「八野の書いたチェック表があるからな。それ通りにやってかんと終わらんから、しっかりやれや」
おっさんは、にやにやしながら言った。
八野のワゴンは、団地の倉庫にしまってあった。おれが渋々、取りに行くと、持ち手のところに紐でくくられたバインダーと鉛筆があった。
9:05 広場のベンチ
9:15 広場の植込み
9:27 駐輪場
八野の汚い字でびっしりと、清掃箇所と時間が書き込まれていた。横には「済」の赤い印。
こんなもん、いちいち書かんでも覚えられるやろ。細かすぎて引く。散々な気持ちでおれは、日常清掃の業務に取りかかった。
広場のベンチは、昨日の夜に、ヤンキーもどきのガキンチョどもが騒いだ残骸でいっぱいだった。
倒れた空き缶。裂けた菓子の袋。踏み潰された紙パック。ゲボだけはなかった。マシといえば、マシやけど。八野がなめられとる結果が、このざまやと思うと、腹の底がまた煮えくり返った。
火ばさみを握りしめて、ゴミを掴む。ワゴンに乗せたバッカンへ投げ入れる。乾いた音。また掴む。また放る。
汗が背中を流れて、つなぎの内側に張り付く。
なんも考えずに、はよ、終わらせたいが、気になることがあった。誰かがおれを見ていた。最初は、気のせいやと思った。やっぱ、違った。
チラ、チラ。
視界の端っこで、こっちを見てくる。団地の住人や。ポッソポソの犬を散歩させるジイさん、イヤフォンしたまま自転車を押す学生、子どもの手を引く母親。
なんやねん。
顔を上げて、目が合うと、逸らされた。
おれは蔑まされてんのか?憐れまれてんのか?
拾っても拾っても、きりのないゴミを拾い続ける運命の男を見てるってわけか。ふうん。しばいたろか。
そのとき。
昨日、八野に絡んでたバアさんが、こっちへ歩いてきた。
「ひどいねえ」
そのひと言で、愚痴が始まると思って、おれは構えた。威嚇の空気を、全身からほとばしらせた。
「学校にも苦情入れたんやけど、それぐらいじゃあかんのねえ」
バアさんは、はあ、とため息をついたあと、ポケットからパインアメを出して、おれの手に握らせた。
「おニイちゃんが毎朝、こうしてがんばってくれとるん、あたしらはちゃんと見とるからねえ」
呆気に取られているおれを差し置いて、バアさんは、しげしげと空き缶を眺めた。
「よくもまあ、こんな風に捨てられるもんやな。やっぱり警察に言うたほうがええかねえ」
しわがれた声を、おれはどこか遠くで聞いていた。
「……あら?」
ふいに、バアさんの顔が曇った。
「あんた、いつもの子とちゃうやないの」
まともに相槌すら打たへんおれを気味悪がったんか、バアさんが去っていって、手の中にはアメが残った。胸の奥あたりに、なんとも言えん感覚が広がった。
それから、植え込みから落ち葉を掃いた。排水溝を磨いた。駐輪場を回った。バインダーの順番通りに、大したことのない仕事を、淡々と終わらせていった。
その間もずっと、誰かがおれのことを見ていた。
ああ、そうか。おれは気づいた。
八野は、この場所を選んでたんか。
どんくさくて、外れくじを押しつけられてる、いけすかん聖人君子が八野優やと思ってた。それは勘違いやった。八野は見られることが、きっと好きなんやろう。派手に汚れて、人通りの多い、この持ち場を、己の意思で手放さなかった。目立つ場所で、目立つゴミは、八野を高揚させた。清掃員として、矛盾した願望や。
八野はいつも平気で、帰りの集合に遅れてた。パンパンになったバッカンを、戦利品を積んだ馬車かなんかみたいに、ゆっくりゆっくり、大切に引っ張ってきてた。
八野は、八野が喜んで輝ける舞台を、誰にも譲らなかったというわけだ。
垣間見えた八野の執念に、なんか妙な親近感が芽生えて、笑えてしまった。やるやんけ。ほんで、そんなやつがおれに、この場所を譲ってくれた意味を、おれは考え始めていた。八野なりの励ましだったのか。
八野の風邪はあっさり治って、何事もなかったかみたいに、おれは元の持ち場へ戻った。おれはいつものように、団地の広場へ八野を呼びにいった。
広場のベンチの裏で、八野が膝をついて、掃除を続けていた。
お好み焼きのヘラのおばけみたいなんを持って、夢中で地面をこすってる。へばりついたガムか何かを取ってるんやろう。
3mほど隣にある木陰のベンチには、住民らしき主婦がふたり、おしゃべりに興じていた。八野に気づいてへん。ただでさえ、あいつ、小っこいから。
先にバンへ戻ろう。いつもなら、とっとと返している踵を、今日はどうしても動かす気になれなかった。
「あ……」
おれは、なぜそんなことをしようと思ったかわからないまま、
「八野ォ!なにしてんねん!」
広場中に響き渡るぐらい、大きな声でツッコミを入れた。
いくつもの視線がまず、おれに刺さった。八野もおれを見た。おれじゃなくて、みんな、八野を見ろ。はよ気づけ。そこで必死に掃除をしとる男に。願いながら、おれはひたすら、待った。
八野が、ガムをこそぎ取ったヘラを、うれしそうに掲げた。土で汚れた膝のまま立つ。数々の視線が、おれから移り、八野へとスポットライトみたいに、収束していく。
色褪せた団地の屋根に、金色の夕焼けがじわりと溶けた。