【小説】聖母の天職(1-就職は消去法)

 

あらすじ 探偵・相沢たくみに「婚約者の仕事を調べてほしい」と依頼する御曹司。聖女のように可憐で清楚な恋人の職業は———借金の取り立て?証言を重ねていくたび、奇妙な彼女の人生が浮かび上がってきて……。全8話(装画は星野ちいこさん、本作のための描き下ろし)

おれが探偵になったのは、銀鱈の西京焼きを奪われたからだ。

もう少し正確に言えば、34歳で無職になり、京都の実家に逃げ帰り、しばらくダラダラと過ごしていたところ、夕飯のテーブルで父が口を開いた。

「就職せんのやったら、ええかげん、うちの仕事でも手伝ったらどうや?」

嘘みたいな本当の話だが、おれの実家は京都で探偵事務所を構えている。父も母も兄も妹も探偵だ。

「……いやだ。この世で一番やりたくない仕事だ」

「お前、まだそんなん言うてんのか。えらい長い反抗期やなあ」

「他人が見られたくないモンを凝視して、告げ口するだけで金に変えるなんてな!正気の沙汰じゃないだろが!」

絶叫するおれの皿に、母が手を伸ばすと、

「ほな、食わんでよろし」

銀鱈の西京焼きを奪い去った。

それを見るなり、父はおれのビールを奪って一気飲みした。兄と弟と妹がハイエナのように箸を伸ばし、おれの夕飯はまたたく間に焼け野原となった。

「うちの夕飯はぜーんぶ、お客さんの不倫調査を汗水垂らして成功させたお金で、あたしが錦市場から買ってきたんえ」

母がにたりと狐のように笑う。

「働かざる者、食うべからずや」

悔しいが、母の飯はうまかった。たとえそれが、他人の不倫を暴いて食う飯でも。

そもそも、おれがなぜ無職になったかというと。

新卒で町役所に勤めはじめた時に「住民票を出す機械になれ」と言われた。春になると数千人の若者が一気に入れ替わるその町は、流動性という名の無関心でできていた。戦場の窓口にいるおれは、機械より機械的な速さだけを期待されていた。

……のだが。

「ちっ、やっとかよ」

転入届を乱暴に渡してくるおじさんの手を、まじまじと見つめた。

よく日焼けして、小きざみに震えている。アルコールの匂いがした。服も靴もくたびれているけど、もともとの素材は良さそうだ。重心が左右交互にゆっくり揺れて、立ちっぱなしで疲れた人間の立ち方に見えた。

「……足、しんどいですよね?」

つい、声に出してしまった。おじさんがぎょっとする。

「なんだ?」

「あ、いや、町のために朝まで働いてくださる人がいるんだから、町のほうが夜まで窓口あけるべきだなと思いまして」

軽い雑談を一方的に続けると、最初は「お前はどの口でそれを言うんだよ」という顔で呆気にとられていたおじさんが、

「……もうさ、やってらんねえよ」

深いため息をついた。

「日雇いの警備員なんて。夜中じゅう立ちっぱなしで、足がパンッパンでよ」

「病院には?」

「行く時間なんかねえよ。寝る時間もねえんだから。コンビニ弁当選ぶのにも、棚の前で何分も悩んで……そんでも金はほとんど残んねえんだ」

「……それはおつらいですね」

「クソッ、ちょっと前まではおれだって会社勤めだったのに、こんなバカバカしい人生あるかよ」

同情の相槌を打ちながら、頭の中で立てていた推測がカチカチと音を立てて噛み合っていった。計算テストに、赤ペンで丸を連続でつけていくのと似た気持ちよさだった。

「……じゃあ、こうするのはどうでしょう。払ってくださった税金に、ちょっとは恩を返してもらっては?」

「は?」

給付金のわかりやすい図を、急いで紙に書きつけた。

「なんだよ。何度も来てるけどよ、こんな金もらえるなんて聞いてねえぞ」

「困ってるということを自分から申請しないと、受け取れないものが多いんですよ。……本当に不親切な仕組みですよね」

「まったくだ」

「よかったら、ぼくが手伝いましょうか」

「おおお!兄ちゃん、話がわかるじゃねえか!」

申請書の記入を手伝っていると、いつの間にか番号札の呼び出しは止まり、待合ソファには不機嫌な市民でいっぱいになっていた。

後ろの事務席からは、

「またはじまったよ……」

「さすが相沢さん。まさに“市民に寄り添う窓口”だよね」

同僚たちが、ぼそぼそと話しているのが聞こえた。

こんなことは何度もあった。町役所を辞めた後の、印刷会社も、ホテルでも、同じことをやらかしてしまった。

「相沢くんさ、気づいたとしても、言わない方がうまくやれることってあるんじゃない?余計なことしないで、ふつうにやってくれたらいいからさ」

視界に入ってしまった違和感は、確かめずにいられない。靴の中に小石が入ったまま歩き続けるのを、ガマンできないことに似ている。

おれだって、ふつうの、鈍感な人間になりたい。でも気づかないようにするなんて、がんばればがんばるほど、逆効果だった。

親切、丁寧、思いやり……褒め言葉であるはずの評価は呪いになり、おれから働く場所をひとつずつ奪い取っていった。

転職を繰り返した挙句、34歳で無職になり、貯金も底をついた。

地元の京都に逃げ帰ると、駅前に小学校のクラスメイトがいた。おれから声をかけると、

「えっ、たくみくん?気づかんかった!……あいかわらず殺風景な顔やねえ」

ひどすぎる言われようが腑に落ちて、笑ってしまった。

気がつきすぎる性分。五分喋っても五歩で忘れられる顔。おれの欠点が同時に役立つ仕事が、この世にはまだ、あるっちゃある。


そう、探偵だ。
——この世で一番、やりたくない仕事。

おれの西京焼きに箸をつけようとした母に、

「わかった。どうにか来週には仕事見つけてくるから」

と言った。

「来週ねえ。ちなみにアンタ宛に届いてるこれ、明後日までのようやけど?」

母が出したのは、おれ宛に届いた各種税金の支払い用紙だった。滞納者だけが手にすることのできる、ドぎついネオンカラーの封筒に包まれている。

「うちは信用商売やし、こういうのを踏み倒す人間が家におってもらうのはねえ……かと言って、ホイホイ立て替えるのも、わが子のためにはならんやろ。ねえ、お父さん?」

「探偵は健康にええぞ。よう動くからな」

というわけでおれは、世界一やりたくない探偵稼業を引き受けることになった。これが昨日の話だ。そして今朝、最初の依頼がきた。

「調べてほしいのは、ぼくの恋人です」

まさかこの恋人に、おれが運命を変えられてしまうとは思わなかった。

(つづく)

 
コルク