【短編小説】かなたの肩書き

 

就活中の大学生・沢村 夏向(さわむら かなた)には、肩書きがない。エントリーシートに書いたのは、父親と中華料理屋のことだけ。なぜか面接を通過して、夢のスピーチ大会を目指すことに。突然の『ヤングケアラー』の肩書きに揺れながら、彼は自分の言葉で人生を語りなおしていくーーー。

全20,000文字


『これまでの人生で一生懸命に取り組んだことは?』

空白の記入欄で、カーソルは点滅し続けていた。

大学の図書館。向かい合う長机には等間隔にパソコンが並び、学生たちで埋まっていた。手を止めている間も、両隣からはカチャカチャとタイピングの音が響き続ける。それが授業のレポートなのか、おれと同じく就活のエントリーシートなのかはわからないが、焦る。

「んんん……?」

考え込むふりをしながら、そっと画面を切り替える。応募先の企業『株式会社ネップウホールディングス』の採用ページを検索して『求める人材』の項目を読んだ。

“リーダーシップでチームを牽引する人。”
“チャレンジ精神があり新しい価値を創造する人”

この輝かしい大手飲食チェーン企業から求められるに値する、輝かしい過去が、おれには何ひとつ思い浮かばない。

一時間かけて、おれが自信を持って埋められた欄は『沢村 夏向(さわむら かなた)』と『 緑前大学 3回生』ぐらいだった。

そんな時、後ろから声がした。

「インターン?えっ、今から?」

振り返ると、同じゼミの吉岡が立っていた。

「おまえも?」

「いや。おれはもう決まって、部活に顔だすとこ」

「なんて……」

なんて書いたのかを聞こうとしてやめた。そんなもんは聞くまでもないと察した。

「吉岡なら、どこでも一発通過だよな」

吉岡が身にまとったスウェットを見た。胸元と太ももに堂々とプリントされたアメフト部のロゴマーク。就活における最強の肩書だ。

「いや、商社行きたかったけど、海外留学かTOEICないとさすがにキビいわ。……沢村が応募しようとしてんのって飲食業界だろ?」

「まあ、うん」

「飲食業界なら体育会系の実績がウケるぞ。部活とか、サークルとか、なんかねえの?」

吉岡はパソコンの画面を覗き込みながら言った。

「野球やってたけど、高校の途中でやめた」

「バイトは?役職とかMVPとか」

「ちっちゃいお好み焼き屋にそんなもんないよ」

「……じゃ、テキトーに盛れば?先輩が言ってたけどさ、語れるもんの多さで勝つんが就活だぜ」

吉岡は余裕ありげに笑って、おれの背中を小突いた。たまたま同じゼミでもなけりゃ、こうやって話をするようなこともなかった階層の人間だ。そのゼミだって、第一希望も第二希望も落ちたおれが、仕方なく拾ってもらえたゼミだ。おれ以外はみんな、講義より練習に忙しい体育会系のやつらだった。

こんなところでつまずいてるのは、おれだけだ。

厳粛な図書館司書の刺すような視線により吉岡が追い出されたあとも、おれはしばらくカーソルの点滅を眺めていた。

頭の中で、輝かしくてぎこちない文章を浮かべては消す。

話を盛るなら3割増しまでというのは、関西で生まれ育った人間にある暗黙のルールで、そもそもがゼロの話なんだから、割増したところで何にもならない。

「語れるもの、語れるもの……っていやあ……」

たちまち、一番濃くて、一番おもろくて、一番よく知ってる、ただひとりの姿だけが残る。

そして、半ばやけくそで書き上げたのは、

高校生のころ、ぼくの父は病気のリハビリでずっと入院していました。父が帰ってくるまでの間、ぼくの夕飯はもっぱら、貴社が運営する『中華の熱風屋』でした。全メニューを食べ比べて、二周目はおいしいと思ったメニューに味変を試しました。皿うどんに酢とソースをかけたら、味に深みが出ることを発見しました。退院した父に教えたら、おまえは天才かと褒められました。

以上。

空欄が埋まったのはいいが、なんなんだ、これ。

情けなさに追い打ちをかけるがごとく、閉館を告げる音楽が鳴り響く。タイムリミットだ。

ため息をついて、おれは送信ボタンを押した。

一週間後の朝、信じられないことが起きた。

人事部から届いたメールには「すぐに、できれば今日にでも、会って面接がしたい」と書かれていた。

スマホがおれの手から滑り落ち、床に置きっぱなしの洗濯かごに当たって、転がっていった。

「なんやなんや!どないした!?」

ふすま一枚隔てた和室から、素っ頓狂な声と、金属がガチャガチャぶつかる音が聞こえてくる。古くて狭い団地だからとにかく響く。うちは特にうるさい家族がいるから、一階なのがまだ不幸中の幸いだ。

駅徒歩20分、風呂、トイレつき、2LDK。
家賃は破格の2万5000円。

なぜそんな値段で住めるかというと、自治体がうちに……というか、うちの父親に、補助金を出してくれているからだ。

「おはようさん」

ふすまを開けて、父親の沢村凛太郎(りんたろう)が出てきた。

車いすの前輪が、和室の敷居を乗り越えて、ガタンッと鳴った。

五年前、職場である建設現場でとつぜん狭心症を起こした凛太郎は、手術で一命はとりとめたが、へそから下が麻痺して動かなくなった。実家は階段しかないハイツの二階だったし、凛太郎は仕事も続けられなくなったので、どうしたもんかと思った。その後、凛太郎が受けた障害認定のおかげで、二人暮らしを続けることができている。

おれはクローゼットの奥のほうから、スーツを取り出した。

「……なあっ」

「なんや?」

「これ、ケツんとこ、テカってんのってわかる?」

大学の入学式で着て、成人式でも着て、洗濯機で回しまくった格安スーツを見せた。

「おおん? いけるんちゃうか」

顎を突き出して、凛太郎がしげしげと眺めた。

「マジで?信じていい?」

「おれはそういうの着たことないからなあ……おい、そんなん着てどないすんねん」

「今から就活の面接。書類で受かったっぽい」

凛太郎がカッと目を見開いた。

「えらいこっちゃ!昼飯食うてく時間、あるんか?」

「うん」

「……せや。昨日、皿うどんもろたで。ヘルパーさんが長崎に旅行してきたっちゅうて」

台所へ向かう凛太郎の車いすとすれ違うようにして、おれが体をひねる。狭い家だから油断するとすぐに轢かれてしまう。

「パリパリのやつ? モチモチのやつ?」

おれが聞くと、

「おお、あんまり考えたことないけど、60手前にしては、モチモチしてはる方かと思われるが……」

凛太郎が目を泳がせた。

「誰がヘルパーさんの話してるんだよ。皿うどん!」

「あー、びっくりした……」

それはこっちのセリフだ。今度からヘルパーに会うたび、肌の水分量がいやでも目についてしまった。

「どっちやったかいな……あかん、届かへんわ」

冷蔵庫の前で、両手を車いすのアームサポートに押しつけるようにして、凛太郎が背伸びした。足が動かせないからそうするのだが、ほんのちょっと伸びるだけだ。冷蔵庫の上段にしまい込まれたものには届かない。

「あのヘルパーさん、気が効いとんのか効かへんのか、わからへんなあ……」

「ちょっと、どいてくれ」

凛太郎の後ろから、おれが手を伸ばした。うちの冷蔵庫は上半分がスッカスカ、下半分は缶ビールやつまみでミッチミチなのだ。

皿うどんは、おれが好きなパリパリのやつだった。家を出るまで時間があったので作ることにした。

手早く野菜を切っていると、プシュ、と小気味いい音がした。母さんの仏壇の前で、凛太郎が缶ビールをあけていた。

「仕事クビになっても知らねえぞ」

「今日は夕方のシフトや、かまへん。それより、こんなめでたい時に飲まんでおられるかいな。母さんもそう思っとるはずや」

仏壇に飾ってある母さんの写真を、凛太郎がしみじみ眺めていた。超特急で流れようとしている感傷に、おれは玉ねぎを切る手を、ぴたりと止めた。

「言っておくけど、就職が決まったわけじゃないからな。インターンシップの面接ってだけだし」

「……なんやそれ!おれの時はそんなん無かったぞ」

凛太郎の眉がぴく、ぴく、と動いた。缶ビールをじっと見つめて、でもすぐに、ぐいっとあおった。

「飲むのかよ!」

「景気づけの一杯や」

「凛太郎が景気つけてどうするんだよ。おれの面接だぞ」

おれは父親のことを“凛太郎”と呼ぶ。物心ついた頃は“お父さん”で、たまにふざけて“凛太郎”と呼んでいたが、病気をして歩けなくなった頃からはずっと“凛太郎”だ。

長い入院で顔を合わせないうちに照れくさくなったというのもあるし、こういう、父親らしからぬ奔放さに呆れているのもある。

あっという間に中身のあいたビール缶を、凛太郎がゴミ箱に放り入れた。

「……息子にこの驚異的なアルコール分解能力を授けられへんかったんは、おれの不徳の致すところや」

「はあ?」

具材を切り終わり、まな板から顔をあげる。やる気と景気を持て余し、らんらんと光る眼差しがおれに向けられていた。

「でもな、お前にはまだ、しゃべりの道がある。俺みたいに学も金もなかったとて、ドッカンドッカン盛り上げる人間は、飲み会ソルジャーとして重宝されるんや。ええか!面接なんて、すべらん話のひとつでなんとかなるぞ!」

「……いや、ならないって」

「ほな、モノマネでもええ。これだけ覚えていけ! 伝説の主審、卍(まんじ)の敷田や! 見逃し三振の!ウケるでえ」

凛太郎が懸命に両手を振りかぶって、卍の形にねじろうとする。車いすから落っこちそうになりながら繰り出される姿が、妙なツボに入って、おれは吹き出してしまった。

おれの父親は、足は動かんけど、口だけはよく動く。


メールで教えられた住所に行くと、そこは、都会の街を見下ろす巨大なオフィスビルだった。

上等なスーツを着た人たちがひっきりなしに出入りしていて、その勢いに怖気づく。

ロビーの一角にある、簡易の応接スペースにおれは座っていた。ガラスのパーテーションには、どこからどう見ても居心地が悪そうな、顔色の悪いおれの姿が映り続けた。

そんなおれの真向かいで、女の人が泣いていた。

黒髪のショートボブ。リボンみたいな布が伸びたブラウスに、薄い青色のタイトスカート。こなれたジャケットを肩からかけていて、首に下がる社員証には

『株式会社ネップウホールディングス 人事部 人材開発チーム シニアマネージャー 四谷 美樹(よつや みき)』

なにやら長くて強そうな肩書が刻まれていた。

ぐすっ。

四谷さんが鼻を鳴らしたのが聞こえた。

本当にわからなかった。どうすればいいのかも、なぜこうなっているのかも。四谷さんの手元には、おれが送ったエントリーシートを印刷した紙があった。

ついさっきまで、四谷さんはそれを読んで、

「“皿うどんに酢とソース”って……ふふふ、エントリーシート読んで声出して笑っちゃったのなんて初めてだよ」

と、明るい顔でおれを迎えてくれていたのに。いまは泣いている。おれが書いた文章を読み直しているうちに、うるっときてしまわれたのだ。急転直下のわけが、おれにはわからなかった。

「困らせてごめんね。昔からこうなんだ。急に気持ちが熱くなっちゃうと涙が出ちゃう」

「いえ……」

四谷さんは、アイスコーヒーのグラスの下に敷いていた紙ナプキンで目元をぬぐった。結露でしわしわになっているそれを、

「あはは。全然、吸わないや!」

四谷さんはパッと明るく諦めた。切り替えの早さがすごい。

「……あの、おれ、まずいこと書いてましたか?」

「ううん。沢村くんの文章はおもしろかった。この文章の奥にある人生を想像したら、胸の奥がギュッと掴まれたの」

「あ、ありがとうございます」

「うん、そう……エントリーシートには淡々と書いてるけれど、あなたのつらかった気持ちは、ちゃんと伝わってきた」

「つらかった……?」

震えてかすれる声と身に覚えのなさすぎる感想に、やっぱり人違いだろうという疑いがまたムクムクと肥大化してきた、その時。

「あなたはヤングケアラーだったんだね」

もう一度視界に入った彼女はまるで、荒野を何ヶ月もひとりでさまよい続けて、やっと探し物に巡り合えたような顔をしていた。

ヤングケアラー。
四谷さんはそう言った。

知らない言葉だった。四谷さんがまた涙を流すので、

「そう……なんですかね……?」

ぼくは曖昧にうなずいて、その肩書を一旦受け入れることにした。

「今日、来てもらった理由から話すね。沢村くんはこのままだと、インターンシップの選考に通過するか、微妙なところなのね」

衝撃の事実を、四谷さんから知らされたのだった。全身から力が抜けたあと、いやな汗が吹き出た。泣きたいのはおれのほうだ。

「でもわたしは、沢村くんがインターンシップに参加できるよう、強く推薦したいと思ってる」

「えっ」

「まずはこれを見てほしいの」

四谷さんは机の上に置いてあったタブレットを操作した。

「ネップウ・ドリームコンテストって、知ってる?」

差し出されたタブレットを見て、おれはうなずいた。映っていたのはYouTubeのチャンネルだった。

株式会社ネップウホールディングスが、若者のためのスピーチコンテストを主催しているのは有名な話だ。音楽フェスを思わせる派手な会場に、芸能人ゲストや演出をバンバン入れて、2,000人の観客とともに動画で中継する。

出場資格があるのは30歳以下の若者だけ。人生と夢について朗々と語り、選考を勝ち抜けば、夢をバックアップする資金が贈られる。ネップウホールディングスのほか、名だたる日本企業も協賛に名を連ねる、国内最大のコンテストだ。

一日のスピーチで人生が変わる、夢みたいな舞台の動画では、

「言葉の力で巻き起こせ!夢の……熱風(ネップウ)〜〜〜!」

選ばれし若者たちが、きらきらした笑顔で拳を突き上げていた。

まばゆい饗宴と、パッとしない自分とがまったく結びつかず、固まっているおれに、四谷さんは説明を続けた。

「夢といっても、自分だけの欲望ではダメ。ソーシャルインパクトがちゃんとあって、うちがビジネス的にも、CSR的にも、応援すべき意義のある夢が望ましい」

「へえ……」

自信たっぷりに並べられていく説明は、どこか遠い国の文化みたいに聞こえてきた。

「この会社の今年のインターンシップは、このネップウ・ドリームコンテストへの出場を目指すプログラムになったの。プレゼンテーションやライティングを学んでもらいながら、インターンシップの最終日に発表して、優秀だった一人だけが本戦に出場できるってわけ」

「はあ、そうなんですか……」

再生が終わった画面を上の空で眺め続けるおれの手から、四谷さんがタブレットを引き抜いた。

「沢村くんみたいなヤングケアラーの当事者が、ネップウ・ドリームコンテストで社会問題を提起してくれたら、きっと注目される」

一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。

「……おれ!?」

「福祉と家族の問題について、本選でスピーチした出場者は今までいない。深刻な苦しみのまっただ中にいた、不幸から抜け出せなかった沢村くんの言葉こそ、応援されて、優勝するべきだよ」

パーテーションの向こうから、何事かと社員がのぞき込んだ。気づく素振りもなく、四谷さんは興奮ぎみにまくしたてた。

「うちはこれから宅配弁当で介護分野に進出しようとしてるし、会社としても沢村くんがインターンシップに参加して、優勝してくれたら……」

「ま、待ってください」

「ん?」

やっと四谷さんが止まってくれて、おれたちは見つめ合った。

「おれが、そこで、スピーチするんですか?」

「あ……びっくりさせてごめん。でも、そうしてほしいと、わたしは思ってる」

四谷さんはうなずいた。黒く滲んだり、赤く腫れたり、忙しかった四谷さんのまぶたの奥からは、ガラス玉みたいに澄んだ瞳が覗いてる。

「ヤングケアラーとしての沢村くんが持つ等身大の物語は、かなり大きなソーシャルインパクトを起こすと思う」

「いやいやいや!無理ですよ、あんな短い作文で!」

「大丈夫だよ。インターンシップ中は人事部のわたしたちがメンターになって、スピーチをブラッシュアップしてあげられるし」

「はあ……」

「たくましさとユーモアの裏に、お父さんがいないさみしさが透けて見えるようないい文章だったよ。磨けばもっと良くなるから、信じてほしい」

「おれはただ、中華料理が好きなだけで……さみしいとかそういうのは……」

「あっ、そうか。ごめんね。つらかったことを、お父さんのせいだって言いたくないよね」

四谷さんは、アッと口元を手で隠した。

「わたし、大学の実習先で、沢村くんみたいな子どもたちをたくさん見てきたんだ。それでつい、放っておけなくて」

「実習先?」

「大学が福祉の先進的な事例を学ぶ学科だったの。わたしが実習したのは、子どもをケアする施設だったんだけど、そこにはヤングケアラーの子どもたちがいて。ただの学生だったわたしは、目の前で心を閉ざしている子たちがいるのに、何もできなかった……」

四谷さんはなにかを思い出したように、唇を噛んだ。それを思い出させ、彼女を使命感に奮い立たせているのは、どうやらおれが同じヤングケアラーという存在だかららしい。

「いまの沢村くんは、無意識に縛られてしまってると思うんだ。親のことを悪く言っちゃいけないっていう愛情で」

「ええ……?」

「でもね、沢村くんには、自分が子どもらしく生きられなくて悲しいって思ったことがあるんじゃないかな」

四谷さんに気圧されて、今までの人生を思い出してみる。子どもらしくというのが、どういう人生なのか、ピンとこない。

ただ、確かなことは、華々しい活躍が、おれの人生には起きなかったということだ。就活で勝てるような、人事部が注目するような肩書を、一切持たずに生きてきた。

そのおれが、今、四谷さんから期待を浴びている。こんなことは人生で初めてだった。

「……なんでおれなんかに目をかけてくれるんですか」

「わたしはね、責任を果たしたいの」

レーザービームみたいに真っ直ぐの視線が、おれを貫いた。

「せっかくこんな大きな企業で働いてるんだもの、営利だけじゃなく、ちゃんと、企業の社会的責任を果たさなきゃって思う。……でも、うまくいかないことばっかりだし、空回りもしちゃってるんだけどね」

四谷さんは小さく舌を出した。四谷さんが使う言葉は、おれにはすこし難しい。でも、彼女はそれを一生懸命勉強して手に入れてきたであろうことはわかる。

「わたしは沢村くんをインターンシップに推薦したい。一緒にヤングケアラーの問題を提起できるなら、わたしはやっと、あの日の子どもたちに胸を張れる」

正義感に満ちあふれていて、背筋が伸びている人。そんな四谷さんは、おれとは正反対だ。足場がしっかりしていて、目がきらきらしている。その目がいま、どこまでも自信のないおれだけを見ている。

カラン。
とうに飲み干してしまったグラスの中で、氷が溶け落ちた。

「沢村くん、あなたは特別なんだよ!」

ずっと、おれが喉から手が出るほどほしかった響きだった。

脳裏では、いろんな人の顔が浮かんでは消えていった。野球部のレギュラーも、指定校推薦も、アルバイトも、ゼミも、選考と名のつくものには落ち続けたおれが、見返せるかもしれない人たちの顔。

少しずつ高揚していく体に、四谷さんの言葉は熱を帯びたまま、次々と突き刺さっていった。言葉は根を張り、無根拠な自信がわいてくる。

ネップウ・ドリームコンテストは出場しただけでも箔がつく。もしインターンシップの最終日に本戦へ進むことができれば、この会社を志望しなくても、就活をする上では有利になるのはまちがいなかった。

打算が駆け巡って、おれは四谷さんに快諾の返事をした。四谷さんは砂漠で巡り合った人間と、一から新しい都市でも建設するかのような力強さで、おれと握手した。

まだ浮ついている身体のまま、梅田駅に向かって歩いていた。信号で立ち止まっている間、ぼくはスマホを取り出して、検索窓をタップした。

『ヤングケアラー』

さっきまで知らなかった言葉を打ち込んだ。

『2023年4月に発足したこども家庭庁においての定義は、病気や障害のある家族・親族の介護などで忙しく、本来受けるべき教育を受けられなかったり、同世代との人間関係を満足に構築できなかったりする未成年のこと。』

知っている単語で構成された説明なのに、二度、三度と読み直さないと、意味をうまく飲み込めなかった。

「これが、おれってこと?」

おれの送ってきた人生はどうやら、この定義に当てはまるらしい。

信号が変わったことに気づかず、横断歩道を渡り損ねた時、スマホの画面が突然黒くなった。

「おう夏向、ワンタンスープは終わったんか?」

凛太郎からの着信だった。

「いまラジオで言うてたけど、電車が止まっとんぞ」

「げっ」

「聞いて喜べ、舞い踊れ。おれが迎えに行ったる」

一時間後。目を見張るほど真っ赤なスポーツカーは、職場から自宅に帰るだけのためには持て余す、二気筒ターボエンジンを回しに回して、爆発音を轟かせながら、阪神高速を走っていた。凛太郎の愛車だ。

「僕がいるぅぅぅんだあ〜!君もいるぅぅぅんだあ〜!」

凛太郎はカーステレオから流れる玉置浩二の『田園』を野蛮に口ずさみながら、凛太郎は右手でハンドルを切り、左手でレバーをがちゃがちゃと動かし、野蛮に車線変更をした。

この車には、足が動かない凛太郎が、手だけで車を運転するための特別な改造を施してある。レバーは足元のペダルにつながっていて、手前に引けばアクセル、奥に押せばブレーキがかかる。それを凛太郎は豪快な手さばきで乗りこなす。

「愛はどこへも行かないいいいいい〜っ!」

運転操作が戦闘機を彷彿とさせるらしく、凛太郎は己をトップガンのトム・クルーズと重ねて、ティアドロップ型のサングラスまでかけている。なんか腹が立つ。

ラストの大サビを歌い終えた凛太郎は、ミラー越しにおれをちょっとだけ観て、

「生きていくぅぅぅんだあ〜!それでいいぃぃぃんだあ〜!」

あろうことか、また最初から歌い始めた。

「しつこい!」

「ワンターンスープに落ちたぐらいで、暗い顔すんなや!人生これからや!」

「インターンシップだよ。そんで、落ちてないし」

凛太郎は運転しながら、言葉を失った。おれがヤングケラーについて調べてから複雑な表情でいたので、勘違いしていたらしい。

「それを早く言わんかい!くーっ、そうか……そうか……!」

何度も嬉しそうにつぶやいて、再び『田園』をやかましく歌いはじめた。ハモるかのごとく、エンジンが高らかに唸った。

家の近所で、こんな派手な車に乗っているのはおれたちぐらいだ。凛太郎はアホだ。手術の後遺症でドカンと降りた保険金をつかって、おれが成人するまでの最低限の生活費と学費をよけた後、残りはこのスポーツカーに注ぎ込んだ。

もちろん、おれは呆れて抗議した。

しかし、当時の凛太郎は、

「ごめんて。せやけど、俺かて死にかけたんやから、夢ぐらい早めに叶えさせてくれや」

重い障害が残った人間とは思えない笑顔で、ゴネにゴネた。手を使って運転する特殊な免許まで、教習所のある福祉施設に泊まり込んで、取ってきたのだ。障害者になって、凛太郎は夢を叶えた。

凛太郎の選択はいつも、どさくさで、めちゃくちゃだ。

車を手に入れた凛太郎は、なにかと理由をつけて、おれを車で送り迎えしてた。学校も、バイトも。おれの知り合いに、スポーツカーを見せびらかしたいだけかもしれないけど。

凛太郎を介護するどころか、この場合、助かっているのはおれのほうだ。

団地の駐車場に着いて、先に降りたおれは、後部座席のドアを開ける。凛太郎が放り込んでいた車いすを引っ張り出して、運転席の横に置いた。ひとりの時は凛太郎が自分で工夫してやるけど、おれがいる時はこの方が早い。

ビールでこしらえた大きめの腹を揺らしながら、凛太郎が車いすにじりじり近づいた。

「よっこらショット」

「撃つなよ」

がははは、と凛太郎が笑った。駐車場から住居棟までは、ゆるやかに長ったらしい上り坂が続く。凛太郎は前のめりになって、タイヤを懸命にこいで、ゆっくりのぼった。

「押そうか?」

おれが一応聞くと、凛太郎は息を切らせながら、

「ハア、今日はいける、ハアッ……こういうところで鍛えとかな、あかんからな……」

腹は出ているが、腕は引き締まった凛太郎の後ろを、ふたり分の荷物を持っておれはついていった。

夕飯は、凛太郎を待つ間に買っておいた、ラーメン屋のテイクアウトを食べた。麺をゆでて、スープを温めている間に、おれは昨日の皿うどんで使った野菜の残りを適当に乗せた。

「うまっ。これ、うまいわ。店出せるでえ!」

「店のやつだからな」

「世話ンなる会社って、メシ屋なんやろ?夏向の作るメシはうまいから楽勝やな。ろくに料理もしたこともないボンボンの大学生なんか、蹴散らしたれよ!」

就活を『どっちの料理ショー』か何かだと思っているのだろうか。

「料理は関係ないけど……なんか選ばれて、スピーチすることになった」

凛太郎はあんぐりと口を開けたかと思うと、

「スピーチて!お前はやっぱ天才やな!」

おれを褒めちぎった。凛太郎はいつも何かにつけて、おれを大げさに褒める。はるか昔に高校を中退した凛太郎だったが、おれの大学進学は、それが第二志望の滑り止めであっても、やたらと誇りに思ってくれていた。

レトルトを調理しても、クレラップの端っこを見つけても、インターンシップに受かっても、なんでも天才の称号を与える凛太郎。天才がストップ安だ。

「母さんによう似て、天才や」

話の最後はいつも、死んだ母さんをおれに重ねる。でも今日はまんざらではなかった。凛太郎は上機嫌で、めずらしく二本目の缶ビールを開けた。

「ペース早いって」

「祝わせてくれや。おれも給料日やねん。ほれ、夏向の分もあるで、アサヒスーパードゥルァァァァイ!」

凛太郎はパチンコ屋の換金所で、週4日アルバイトをしている。車いすのまま、掘っ立て小屋みたいなところに入って、客が来たら小窓からヌッと手を出すらしい。手ばっかり見てるから、手相占いができるようになったとか、嘘か本当かわからないことを言っていた。

今のご時世で信じられない条件だが、テレビで野球中継を見たり、タバコを吸いながらでいいのと、時給が意外にも高いらしく、凛太郎はご機嫌で勤めている。

「ほんで、そのスピーチとやら、何を話すんや?」

鋭い質問に、ドキッとした。

「……まだ決めてないけど、今までの人生とか、飲食業の未来とか、そういうの」

ヤングケアラーという言葉を、まだうまく説明ができない気がして、おれは嘘をついた。

食事を終えたあと、凛太郎が皿を洗いながら洗剤を足すふりをして、時計を盗み見していた。

「バレバレだって。テレビ、つければ?」

おれが言うと、凛太郎はギョッとして口ごもる。

「見たいもんあるんちゃうんか?」

「おれは部屋でインターンの用事してるから」

リモコンで電源を入れると、阪神タイガースが試合をやっていた。もう4回裏だ。

「うおっ、木浪が打っとるやないかい!」

凛太郎の声が跳ねた。そんなに野球が好きなら、食事しながらもっと早く見ればいいのにそうしない。いつもおれが部屋に戻ってから見るか、イヤフォンでラジオを聞くか、スポーツ番組をはしごしている。

わざざそうする理由は、なんとなくわかる。おれが小学校から続けていた野球部を、高校二年の夏、これからレギュラー争いという時期にあっさり辞めてしまったからだ。凛太郎はおれの前で大っぴらに野球を見なくなった。隠せてないんだから、堂々と見りゃいいのにと思うが、わざわざおれから聞くのも気まずくて、ずっとこのままだ。

自分の部屋へ戻り、ベッドに寝転がりながら、おれはYouTubeを見ていた。去年のネップウドリーム・コンテストの授賞式だ。

『優勝者は、秋田県の新人栄養士・須藤桜さんです!カンボジアで無料の給食センターを立ち上げる夢に賞金が贈られます!』

金テープと激しい拍手が舞う画面の中で、おれと同い年ぐらいの女子が涙ぐんでいる。

『初めてスタディーツアーで訪れてから、カンボジアの教育問題を解決したくてもがき続けてきました。こんなに応援してくれる人がいるなんて……諦めなくてよかったです……!』

受賞者のコメントを聞きながら、おれは四谷さんが言っていたことを思い出した。おれが凛太郎と送ってきた日々のことを話せば、それはヤングケアラーの社会問題として注目される。肩書は就活中のおれを救うし、苦しむ誰かを救う。やるべきだとわかっているのに、でも、この違和感はなんだろう。

廊下が急に騒がしくなった。

凛太郎が風呂に入るタイミングは、すぐにわかる。
とにかく、うるさいからだ。

車いすのブレーキをかける音。凛太郎が風呂場の床にすべり降りる音。タイルに車いすや足をぶつける音。ありとあらゆる騒音が反響して、断続的に聞こえてくる。

しばらくすると急に静かになって、代わりにシャワーの水音と音痴な鼻歌が聞こえてくる。ここまでだいたい10分だ。

おれなら10分もあれば、ひとっ風呂浴びて、髪の毛拭きながらアイスまで食える。歩けない凛太郎は、何をするにも時間がかかる。

おれが介護して、凛太郎を抱き上げて風呂に入ったり、洗ったりすれば、もっと早くて楽なんだろうけど、やったことはない。凛太郎は、風呂とトイレの世話は誰にも頼まない。聖域を守るみたいに、ひとりで済ませる。

「出たぞー」

廊下から凛太郎の声がして、おれはスマホの画面を消した。

「夏向、すまんけど歯ブラシ取りに来てくれんか?」

「歯ブラシ?」

「新しいやつ剥こうとしたら、落っことしてもうて」

ああ、と生返事して洗面所に向かった。狭いので、ものを落としてしまうと、洗濯機や棚の隙間にはさまってしまう。おれは移動させればサッと取れるけど、凛太郎には重すぎて無理だ。

「すまん……」

歯ブラシを取るおれに、凛太郎がしょんぼりして言った。こんなのはいつものことなのに。

「大事な用事しとったんやろ。おれが邪魔してもうて、すまんなあ」

寝転んでスマホを見ていただけだったおれは、胸が少し痛んだ。

あっという間に、インターンシップがはじまった。

株式会社ネップウホールディングスの会議室に集められた学生のおれらは、軽く顔合わせをした後、ワークショップを受けた。自分の強みを言語化して、それをスピーチ原稿に落とし込んでいく。

メンターという指導役で登場した四谷さんは、

「いい原稿は嘘でも書けるけど、いいスピーチは嘘では作れない。言葉に魂がこもらないからね。だから今までの人生を素直に、客観的に、振り返っていこう!」

熱血的ではきはきした物言いで、あっという間に学生の心を掴んでいた。勢いに乗ってペンが動き出す音が聞こえる中、おれだけがまだ手を止めたままだった。

「沢村くんはお父さんにしてあげたことをまず、ひとつひとつ、思い出してみようか」

四谷さんに言われるがまま、思いついた順に挙げてみた。退院したてで体力の落ちている凛太郎の車いすを、おれが押したこと。高校を何日か休んで、ふたりで団地に引っ越し、突貫でスロープを取りつけたこと。腹筋に力が入らず、包丁が握りづらい凛太郎の代わりに料理を覚えたこと。

「こんなの“してあげたうち”に、入らなくないですか?」

「そうかなあ?」

「ただの役割分担でしかないっていうか。ふたりで暮らしてるわけだし……」

「沢村くんは立派だよ。わたしは大学に入るまで、家事なんかやったこともなかったし、部活にバイトに、自分のことばっかりだった」

四谷さんから羨望の眼差しを向けられて、悪い気はしない。

「沢村くんみたいに自覚がない頑張り屋の子どもたちが、この話を聞くことで、支援につながるきっかけになれたらいいよね」

「そういうもんですかね……」

「煮詰まってきたね。ちょっとみんなで休憩しようか。コーヒー、取ってくる」

プレゼンテーションやブランディングのワークショップにも参加しながら、三日目に下書きをして、四日目に四谷さんに直してもらいながら、原稿はなんとか書き上がった。

「建築現場で働いていた父は、歩けなくなると、できる仕事がなくなりました。保険金は、家のバリアフリー化や、父が病院へ通うための車の費用で減っていきました。野球部の友だちが甲子園を目指しているとき、ぼくはお好み焼き屋でバイトを始めました。そこで学んだ料理を、父のために作る日々でした。そうして囲むご飯は、おいしいけど、さみしかった。一度、父がひとりで料理をしようとして、やけどをしたことがあります。そんな父を置いて、家を出ることを考えると、罪悪感に押しつぶされそうでした。ひとりで抱え込んでいたぼくに、いま、言ってあげたいことがあります。助けを求めることは、弱さではないと。ぼくの人生は、ぼくのためにあるのだと。これからは後悔ではなく、行動をしていきたい。ヤングケアラーだったぼくが、ヤングケアラーを救うぼくになるために。どうか、みなさんの力を貸してください!」

原稿の中では、凛太郎が弱々しく身動きのとれない存在に変わっていた。パチンコ屋で稼いだお金でビールを買って、おれを天才と褒めちぎる、調子のいい凛太郎はそこにはいない。

関西では話を三割まで盛っていいのは暗黙の了解というか、許されるユーモアだと心得て生きてきたが、あまりに大げさな弱音が後ろめたかった。いっそ書き直そうと思った。

けれど、その気持ちは、翌日のリハーサルで揺らいだ。

リハーサルでは、今まで参加していなかった社員や、人事部のえらい人たちまでが集まって、インターンシップ生のスピーチを聞きに来てくれたのだ。

おれのスピーチを、たくさんの人が褒めてくれた。

「わたしの思った通りだった。沢村くんが向き合っていく姿は、それだけで多くの人を救うんだよ」

四谷さんの頬には、跡が伝っていた。

「また泣いちゃったのは……反省。フィードバックは冷静にやるからね」

とても書き直したいなんて言える雰囲気じゃなかった。

スピーチコンテストの本戦出場が叶うのは一名。来週月曜、インターンシップ最終日の卒業報告会で決まることになっていた。

インターンシップも大詰めになって、帰宅する時間が遅くなることが増えた。おれと凛太郎の夕食はもっぱら、インスタントやレトルトで済ませていいた。

「なあ、夏向」

ふたりでチキンラーメンを作っていると、ふいに凛太郎が言った。

「ヤングキメラ……ってなんや?」

おれは動揺して、チキンラーメンの上に卵を殻のまま落っことしてしまった。

「なんて?」

「おまえがスピーチする内容とちゃうんか?」

「……おれ、そんなこと言ったっけ?」

「ああ、すまんな。昨日、風呂から出たときにお前の部屋から聞こえてきたんや。なんや、あのどえらい賢そうな声の姉ちゃんが上司か?」

四谷さんとスピーカーフォンで会話しながら、原稿の息継ぎのポイントなどを細かく練習していた。まさか聞かれていたなんて思わなかった。

「難しいことはようわからんかったけど、ヤングキメラっちゅうのが、うちのことかいな」

サーッと全身の血が引いていくのを感じながら、殻をつまんで除いた。時間を稼いで、言い訳を必死で考えていた。

「……ただのビジネス用語だよ」

「そうなんか?」

「アジェンダとか、コンセンサスとか、ミエセスとか、色々ありすぎておれも困ってる」

「意味もわからんと使ってることはないやろ」

「いや、なんとなくの雰囲気で使ってかないといけない感じ」

凛太郎は「ほお」と言いながら、頭をぽりぽり掻く。

「カタカナにしてうまくいったんは野球用語だけやな」

凛太郎が舌をべろっと出して笑うので、おれはやっと、引きつっていた口元が緩んだ。

「ノーヒットノーランとか?」

「ああ……ええ響きやな。明日は甲子園でデーゲームや。一緒に観に行くか?」

凛太郎はうっとりした顔で、丼からチキンラーメンをすすり始めた。

「いや、明日は……」

口ごもるおれを見て、凛太郎が突然、しまったという顔をした。おれは急いで言い直す。

「ちがう!行きたくないわけじゃなくて、その、明日はインターンの最終日なんだ」

最終日、スピーチコンテストの出場者を決める報告会だ。この日のためにがんばってきたのだ。そこで卒業後の運命が決まる。

「野球は、また今度、一緒に行こう」

おれが言うと、凛太郎はぽかんとして、

「……ほんまか?」

「おれの分のユニフォームとメガホン、貸して」

まだ半信半疑だったらしい凛太郎は、緊張の糸を一気にゆるめて、

「ガーッハハハハ!任しとけ!就職が決まったお祝いや!」

大口を開けて笑った。

「なんで就職祝いが野球観戦なんだよ。あと、インターンが終わるだけで、まだどうなるかわかんないって言ってるじゃん」

「大丈夫や!おまえは天才やからな!」

「またテキトーなこと……」

「いーや!おれはここんとこ、一生懸命になってるお前を見てるだけで、ほんまに誇らしいんや!土壇場で追い込まれた時のお前は誰より強い!おれが保証したる!」

凛太郎の口から、するすると流れるように言葉が飛び出てきた。まったく、ご機嫌になるといつもこうだな、と思ったけど、いつもの口八丁とは違う気がした。大げさではなく、なんでもないことを当然のように言う、そんな言い方だった。

胸がしめつけられた。ヤングケアラーのことをごまかしたことが、ボディーブローのようにじわじわと効いてきた。

おれはしばらく黙って考えて、

「なあ、明日はバイト休みってこと?」

気づいたら、たずねていた。


インターン最終日の報告会とあって、社内の一番大きな部屋が用意されていた。簡易的な舞台まであって、本格的なスタンドマイクが置いてある。

「スピーチコンテストの会場は、この数百倍大きいよ!」

四谷さんが腰に両手を当てて、仰々しく言った。

部屋にはインターン生、メンターの社員の他に、人事部や広報部にかかわる人たちもたくさん集まって、役員もわざわざ視察に来たらしく、ほど良い熱気に包まれていた。

緊張と覚悟が行ったり来たりの反復横跳びで、感情の忙しいおれたちインターン生に、四谷さんが設備の説明をしていく。

「マイクスタンドは真ん中をひねって、しゃべる前に高さを変えてね。それから、絶対に注意してほしいのが、このモニター!」

四谷さんが、舞台から見て正面の足元に立てているモニターを指さした。00'00'00と大きな数字が映し出されている。

「このカウントが、残り1分になったら背景が黄色になって、持ち時間をオーバーすると赤色で点滅するから」

スピーチの持ち時間は10分間。この時間内に必ず終わるように、おれたちインターン生は原稿をブラッシュアップし続けてきた。

「7分間を超えたら大減点になっちゃってもったいないから、スピーチは時間厳守!原稿飛んじゃっても、これだけは覚えてね!」

冗談めかした四谷さんの言葉に、緊張気味の笑いが起きる。

「あの……緊張して原稿が飛んじゃったら?」

インターン生のひとりが、不安そうに手を上げた。

「どうしても不安だったら、タブレットや原稿をマイクの横の台に置いてもいいよ!まあ、読んじゃうと審査の印象は悪いけど……お守りはあったほうがいいもんね」

四谷さんが言うと、手を上げた人はホッとした表情を浮かべた。

「一応、社内の報告会だから、そんなに堅苦しくしなくていいよ。のびのびやっていこう。ほかに何か、聞きたいことはある?」

「はい」

最後に手を上げたのはおれだった。

「どうしてもスピーチを聞かせたい人がいるんですけど、ビデオチャットで繋げてたらダメですか?」

「ビデオチャット?」

「タブレット持ってきてるんで、これで……」

四谷さんは意外そうな顔をして、少し考えたあと、

「……うん、いいよ。録画したものは採用ページのムービーにも使う予定だったしね。沢村くんのスピーチの間だけでもいい?」

「ありがとうございます」

「ちなみに、誰とつなげるの?」

「凛太郎……あっ、えっと、父です」

「お父さん?」

四谷さんが面食らった顔で、押し黙った。今まで一辺倒におれを信じてくれていた四谷さんの目が明らかに泳いだ。不穏な驚きがこぼれた顔つきで「ふうん……」とこぼした。

スピーチが始まった。おれは自分の前の人の出番中に、タブレットを操作して、凛太郎とビデオチャットを繋いだ。

(こうか?こうか?)

画面に映し出されたのは、凛太郎のどアップだった。鼻毛まで丸見えだ。昨日あれだけ操作方法を教えたのに、やっぱり慣れないらしい。

(みえてるか?おーい!)

音量をあらかじめ0にしておいてよかった。凛太郎は口をパクパクさせて、おそらく、画面の向こうで叫んでいた。

「みえてる、みえてる。こっち側だけ音聞こえるようにしてるから」

タブレットのマイクに向かって、ぼそぼそとつぶやいた。凛太郎は指で大きな丸を作った。子どものようにワクワクして、待ち切れないみたいだ。

一列目の席だったので、座面にタブレットを立てかける。凛太郎が舞台を見えるようにして、

「次は、沢村夏向くんです」

おれは喝采とともに舞台へ立った。舞台脇では四谷さんが、まだ戸惑いを隠しきれていない顔で、おれを見つめていた。

「ぼくには、病気で歩けなくなった、父がいます。物心つく前に母は亡くなっているので、ずっと、二人で暮らしてきました。家ではぼくが料理をして、父の車いすを押すこともあります。それが普通の日々だと思っていました。二ヶ月前、ぼくはヤングケアラーという言葉を知りました。障害のある家族の世話で、子どもらしい生活を送れない子どものことを言うそうです」

これまでインターンシップの活動で完成させた原稿は、ここまでで切り上げた。

「大変だったね、苦しかったね、と寄り添ってもらえて、ありがたいなとも思いました。でも、このスピーチを書いている間に、ぼくは本当にヤングケアラーだったのか、わからなくなりました」

なんとなく頭の中には、ずっと浮かんでいた言葉たちが、するすると出てくる。

「……ぼくの父の腕には、あざがあります。リハビリの入院中、何度も無理して、落っこちたからです。風呂とトイレをひとりで済ませる練習とか、手だけで車を運転する免許とか、かなり難しかったみたいで。そんなのおれが代わりに手伝うから、はやく家に戻ってきたらいいじゃんって、ぼくは思ってました」

置いてきたタブレットを見る。凛太郎の顔が小さく映っているが、表情はわからない。でもそれでよかった。凛太郎に向けていると思えば、次々と言いたいことは浮かぶ。

「でも、父が病院から戻ってこなかったのは……たぶん、全部、ぼくのためです。できるだけ、ぼくに介護をさせないように。父が戻ってきたのは、一年半の厳しいリハビリをやり抜いた後でした。ぼくだったら、とっくに逃げてます。だって、高校の野球部すら、途中で逃げたぼくです。ぜんぜんうまくならないし、丸刈りにするのも、先輩の理不尽も、何もかも苦手で。まわりは父の入院のせいだって誤解してたし、ぼくもそれを言い訳にしてしまったことがあるけど……嘘です。本当は辞める都合ができて、ホッとしてました」

原稿にない話だから、何箇所か言い淀むし、要領を得ないスピーチに、会場にも少しずつ戸惑いが広がっていく。何人かが“なんの話だ?”って、疑問符を浮かべているのがわかる。舞台袖の四谷さんは一足先に、戸惑いを絶望へと変えているだろう。

それでも、言いたいことが言っても言っても、言い足りない。

「……そんな強い父ですが、一度、大変なことをしました。入院中の外泊で帰ってきてた父が、団地の屋上から、飛び降りようとしたんです」

会場の誰かが「えっ」と声を上げた。

「金網をよじのぼろうとして、大騒ぎになって。ぼくが後ろから羽交い締めにして、なんとか降ろして。すごい力でした。指一本になっても、金網にくらいついて『登れへんのかいやああああああああ!』って、あんなに怒って、あんなに泣いてる父を見たのは初めてでした。ガバーッて後ろに倒れた父が言うんです。『父親らしいことなんにもしてあげられん体になって、それどころかお前に野球まで辞めさせて……飛び降りることも許されへんのか……』って。そんなことを父が考えてたことにびっくりして、呆れもしました。それまでぼくの気持ちを確かめなかった父が、いや、父と話さなかったぼくが、悔しくて、情けなくて、ぼくはそのへんにあったホースを掴んで、ふたりで水をかぶりました。水でビチョビチョになって、一緒に凍死しようって。……まあ、10月だったんで、そんなんで死ねるわけもなくて、ただ父が『ちべたあ!』って叫んで、風邪ひいて終わったんですけど」

張り詰めていた会場のあちこちから「ぷふっ」という、笑っていいのか悪いのか、判断に迷った末に漏れ出てしまった笑い声が聞こえた。

「かっこ悪い思い出です。でもあの日から、父とはなんでも話すようになりました。退院した父はパチンコ屋でバイトして、ぼくは料理が趣味になって、それなりに楽しくて……うちは、運がよかった。こんなぼくがヤングケアラーかって言われたら、定義ではそうかもしれないけど、ヤングケアラーだから不幸でしたよねってことまで言われたら、頷けなかったです」

おれは小さく、息を吸い込む。

「ヤングケアラーは、社会問題です。社会問題は解決すべきだと思います。でも、ぼくと父が過ごしてきた日々が、解決されるべき不幸な過去だったとはまだ言いたくないです。……だけど、いま、助けを必要としている子どもがいて、ヤングケアラーと肩書がつくことで、助かるのも事実なんですよね。だから、ぼくはぼくの肩書に、どう答えを出せばええかわかんなくて……これからもずっと、考えていくと思います」

ありがとうございました、と勢いで頭を下げた。足元で残り秒数を告げるモニターはゼロで、とっくの昔に、赤く点滅していた。

インターンシップが終わった。

微妙な空気になった人事部の前でおれが選んだのは、謝罪に次ぐ、謝罪の道だった。各方面に謝りすぎて、おれは謝罪の扇風機と化した。

「……まあ、あれだけ派手に時間オーバーしたら、候補に選ばれなくて当然だよね」

黙々と会議室の片づけをしていた四谷さんが言った。

「せっかく面倒見てくださったのに、すみませんでした!」

おれは四谷さんに一番長く、頭を下げた。彼女の首から下がった社員証の写真も、険しい目つきでおれを睨んでいるように思えた。

「正直、ショックだったし、腹も立ってるよ。元の原稿の方向性が間違って
るなって思ったんなら、もっと前に言ってほしかった」

四谷さんは何かを考えるように、しばらく黙った。

「沢村くんと出会えて、嬉しかったのにな。……わたし、そんなに相談しづらい人間だった?」

「……いえ……おれも今日、ぶっつけ本番でガーッとしゃべってみたら、ああ、おれの本音ってこれなんだって、初めてわかったぐらいで……」

「じゃあ、わたしと作った原稿なんて無駄だったね」

四谷さんは肩をすくめて、力なく笑った。

「無駄……ではなかったです。あっ、いや、四谷さんの時間は無駄にしちゃったけど……社会問題は解決できなかったし……」

おれは顔を上げる。

「でも、おれの問題は解決できました。それは四谷さんのおかげです」

四谷さんの目が一瞬、きょとん、と開いた。インターンシップの間、この目が朗らかに笑ったり、涙を流したりしながら、おれから言葉を次から次へと掘り出してくれた。あんなにたくさん家族のことを話したのは初めてで、話そうとしても話せないことがあると知ったのも初めてだった。その目が、今はただ静かにおれを映していた。


おれは敗残兵のように疲れ切った姿で、会場を去った。道路を挟んで向かい側の駐車場に、真っ赤なスポーツカーがいた。

「夏向ァ!すまん、コーン動かしてくれんか」

運転席から、凛太郎が叫んでいた。駐車スペースを三角コーンが邪魔していた。

凛太郎は、しばらく往生していたのか「しまった」と「よかった」が、入り混じった、情けない顔をしていた。スピーチ後のことを心配して、こっそりやってきたのだとわかったおれは、邪魔な三角コーンに感謝した。

凛太郎の真っ赤なスポーツカーは、荒々しくも清々しい速度で環状線の高速道路を走り抜ける。凛太郎の目の下も真っ赤に腫れていたが、ふたりとも、スピーチの内容には気恥ずかしくて触れなかった。

「お前はやっぱ、天才や。おれより話がうまい」

ただ一言、短い感想だった。

「なあ、凛太郎」

「なんや」

「東京でも大阪でも就職見つかんなかったらさ、どっか、遠い会社も受けるのってありかな」

「ありありのありやろ!お前は天才やから、どこでもやってけるわ。すずめの小便ほどの仕送りも、俺に任しといてくれ」

「きったねえな。すずめの涙だろ」

「俺のことは心配すんなよ」

凛太郎が、笑いながら言った。

「あの忌々しい三角コーンもな、そのへんの人に声かけて、どかしてもらうわ。やから夏向は、無理に帰ってこんでもええがな」

「帰りたくないときは、ちゃんと言うよ。おれはそういうの、自分で選べるから」

「ほうかあ」

凛太郎は、永遠に似合わないサングラスを押し上げた。息子から帰りたくないと言われたくせに、穏やかで、機嫌がよかった。

おれは確かに、障害のある父と暮らしていた。ヤングケアラーと定義された、おれの日々に、大人になった今のおれが戻れるとしたら。

おれはなんて声をかけるだろうか。

手を差し伸べるだろうか?部活を辞めてまで見舞いなんか行くなって、庇うだろうか?うんざりしながらも続けてたら、なにかの奇跡が起きて、ベンチ入りできるかもしれないって希望を語るだろうか?

凛太郎はあざを作らなかっただろうか?もっと、いい人生に、なっていただろうか?

わからない。

おれと凛太郎の人生が、救われるべき悲惨なものであったか、幸福なものであったかは、いつか名前がつくんだろう。途中でコロコロと変わるかもしれないし、死ぬ間際になってやっと名前がつくのかもしれない。

その名前は、おれがつけるということだけを、今は決めておく。

 
コルク