書きとめて、おちついて、どっか行け

 

いま、わたしが恐れているのは、永遠に忘れてしまうことだ。

一時的に忘れてしまう分には、まだいい。その日を踏ん張って生きるために、忘れんとやってられないこともあるだろうさ。でも、遠く通り過ぎた先で、忘れたはずの思い出に励まされたい時はある。サッシのレールからほこりをカリカリほじくるように、脳みその、なんかキュッとして湿ってそうなシワから、ほじくるならいい。

千と千尋の銭婆も、言ってた。

「一度あったことは忘れないものさ 思い出せないだけで」

って。

BUMP OF CHICKENの藤くんも、言ってた。

「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって 消えやしない」

って。

悟り界の二大巨頭が言ってるんやからと。大丈夫やろうと。でもわたしは、わたしの記憶の自動保存機能を、心の底から疑っている。まだ Microsoft Office 98が搭載されている脳なのである。


まず、

わたしの頭の中、常にやかましい。


ひとりでいる時のわたしは、だいたい死んだ魚の目で、顎が消失するほど口を半開きにして黙っているが、頭の中ではずっと喋っている。独り言が飛び交っている。

たとえば、阪神高速を走る車に乗ってると、窓から見える看板ひとつひとつにツッコミを入れてしまう。(「あのでっかいチチヤスヨーグルトの中身はどうなっとんね〜ん」「フタに賞味期限が書いとるってほんまかいな〜」等々)

人と会話していてる最中でも、頭の中ではダメ出しがささやかれる。船場吉兆。しかも右脳と左脳の両側から同時連射なので、ダブル船場吉兆。(「あんたそれは言いすぎや!」「絶対引いてる!絶対引いてる!」等々)

夜までに絶対返さなあかんメールを打っていても、頭の中ではシネマコンプレックスでも開業したんかと思うほど、いろんな話が同時上映されてるので、メールそっちのけで観客として満喫する。

どこで何してても、一人で頭がやかましい。


お恥ずかしいことに、つい最近まで、みんな同じだと思ってた。外見や性格と違って、頭の中は人と比べられないから、発見までに時間がかかった。

こないだ食事の席で「頭の中でしゃべってると超疲れるよね」と何気なく打ち明けたら、誰からも、1ミリも共感されず、衝撃をくらった。

わたしが真に共感を求めるべきは、キングギドラ、阿修羅像、ケルベロスの面々だったんか!

あいつらも多分、めっちゃ疲れてると思うよ!バンド組もうや!脳内かしましバンド!音楽性の違いと過労により、5秒で解散!

やかましいおかげで、助かることもある。

おしゃべりが尽きないので、退屈らしき退屈という状態を味わったことは何年もない。わたしはずーっと楽しい。理不尽や不運でつらい目にあっても、ツッコミを入れ続けるので、セルフ漫談で乗り切れる。話の種にも困らない。

ただ、やたらと多すぎる。
思いつきの数が。

満員電車が駅から駅へと大量の人間を入れ替えるように、パンパンになった頭から、言葉がどんじゃらとこぼれて、永遠に消えていく。焦る。

風呂場で髪を洗いながら「うわーっ!そうや、この質問、あの人にしたら絶対におもろいわ!」と焦り、ビッチャビチャの泡だらけで飛び出す。リンスを流すのを忘れ、朝ガビガビになって気づくのも数知れず。

駅の改札前で、カバンからICカードを掘り起こしながら「さっき前に座ってた人、味のある服やったな……」と焦り、ニヤつきながら棒立ちしては妖怪ぬりかべと化すわたしが、後続からバチギレ舌打ちくらうのも数知れず。

焦る。

思いつくのも早ければ、失ってしまうのも早い。

思いつきが、本当に良いものになるかはわからん。大半は宝石と見間違えたゴミみたいなもんだと思う。でも、誰かを楽しませるエッセイや小説に化ける宝石の可能性が0.001%でもあるならば、手放すのが惜しくて、たまらない。そわそわしちゃう。

だってさ、アルミ缶はゴミだし、酸素はそのへんにあるけども、アルミニウムと酸素がキュッキュと結びついたら、ルビーになるんだぜ……!

種と種を組み合わせたら、急に、人生の伏線回収が始まることだってある。だからとりあえず、覚えておきたい。その時、脳裏に瞬いた火花のような言葉に、一秒でも感動できたわたしを、信じてあげたい。

昔々、わたしが吐いていた情けない弱音に、わたしが救われることだってある。4年前なんてさ、わたし、家の庭にハトが襲来してて、全力で「もうあかんわ」って書いて、絶望してたんだぜ。お金ないからハトよけネットを自分で張ろうとして、7階から落ちかけてたんだぜ。もう永遠にハトと手を繋いで生きてくしかないと思ってたけど、今はハト、全然いないよ。勝ったよ。

その時に書き殴った不運がさ、いま、ハトに襲撃されてる誰かの心をも、少し軽くできてるならば、そんなに嬉しいことはないでしょう。

尊敬する小説家で『博士の愛した数式』などを書かれた、小川洋子さんが『物語の役割』という本で、物語が生まれる瞬間の話をしていた。

小川さんは、小説を書くとき、家族とか絆とか、テーマから考えることはしないらしい。出会った人の個人的な話を聞いて、心が動くと、鮮やかな光景が浮かぶという。例えば、数学者と家政婦が腕時計を見ながら食卓で話す光景、老人を背負った男が古いアパートの階段を降りる光景。その光景の過去と未来を、言葉で追っていくのが、小川さんの小説なのだと。

書きたいテーマではなく、追いかけたい光景がある。そこから物語が自然に生まれ、書いた人を癒やし、読んだ人を癒やす。

小川さんの営みを知ったとき、わたしは、ウワーッと体温があがった。書いて生きるって、こういうことなんやと。こうなれたらば、どんなに人生が豊かで、何が起こったとて、くじけへんもんになれるやろかと。

希望が見えました。

小川さんは、むしろ言葉は一番最後に遅れてくるもんだとおっしゃってるので、わたしが悩んでいるような忘却には、一切触れてないけども。

わたしのとっ散らかった頭の中にも、追いかけたい光景がある。まだわかんないけど、本当に追いかけたいのか、追いかけたくないのか。でも、じっくり思い出して、わかりたい。

その都度じっくりやるには、今のわたしはまだ忙しすぎる。頭の中も、生き方も、生き癖も。

だから、わたしは書いているんだと思う。

思いつたら、思いついたそばから、書いて、書いて、書き留める。わたしのそばにはいつも、1冊の手帳と、3冊のノートと、2件のアプリがある。

良いものか、良くないものか、判断するのは未来のわたしへ、無責任に任せた。いまわたしに必要なのは、永遠に忘れてしまう予感と焦りからの解放だ。おちつきだ。

「オッケー!もう忘れてもいいよ!書いといたからね!」

手帳やノートがクロークとなって、親指を立て、わたしを送り出してくれる。わたしは安心して忘れて、前を向き、言葉の向こうへとハトのごとく飛び立てる。目の前にいる人の話に集中できる。思いつきで、岩手の温泉などへも行っちゃえる。

なんで、こんなに焦るかっていうと、たぶん父への後悔だろうな。中学二年生の夏に父を亡くしたけど、学校も部活も受験もあって、わたしは忙しかった。忙しくしないと、涙で目が腫れるから嫌だった。だから努めて、忘れた。父の声も、顔も、忘れてしまえば、悲しくなくて、とっても楽だった。

10年ぐらいそれでやってきたけど、今になって、父の声と顔が惜しい。わたしの話に出てくる父のことは、ほとんどが、母からの懐かしくも愛おしい又聞きである。忘れてしまえる才能が憎たらしい。

父の声と顔も、何かの言葉や光景の火花がきっかけで、フッと蘇ることもあるだろうか。

(後編は書き留める習慣について)


 
コルク