【キナリ★マガジン更新】お金では手に入らなかったもの(姉のはなむけ日記)
グループホーム入居を目指し、ダバダバと奮闘する姉と弟の記録。前回のお話はこちら。
始まりのお話はこちら。
本文中の写真は友人の仁科勝介(かつお)くんが撮ってくれました
しゃべりが、達者になった。
週末、実家へ帰るごとに、おどろいてしまう。弟のしゃべりが、目を見張るほど達者になっているのだ。
弟との会話を文章にするときは、読んでる人がわかりやすいように、少し翻訳をして書いているが、実際はもっとわかりづらかった。
「こんにちは」は、本当は「おんいいわ」に聞こえる。
母とわたしでも、三割も聞き取れていないと思う。何日も、何日も、弟の同じ説明を繰り返して聞いて「なあんだ、そういうことね」とようやくわかる。それを何年も繰り返してきた。
ところが。
母とわたしと弟の三人で、夕飯をかこんでいるとき。
「いややわ……打田さんとこの漬物、めっちゃ美味しいやないの」
「漬物とお茶で締めはじめたら老婆のはじまりやと思ってたけど、全然いけるわ。むしろ漬物とお茶だけでええわ」
「あんたがこっちの世界に来てくれて、ママは嬉しい」
そんな風に母とご飯を食べていたら。
「なーにをいうてんねん、いややわ、ほんま」
箸が止まる。
いま、オバチャンおった?
母が驚愕しながら、となりに座っている弟を見た。
「……いま、良太がしゃべった?」
弟がニンマリと笑って、首をかしげる。
「いうてたやん、もう」
オバチャンがおった。
翻訳もなにもなく、本当にこの通り、はっきりと発音したのである。オウムみたいに、文脈関係なく誰かの口ぐせを繰り返していているだけかと思ったら。
「なみちゃん、カギ忘れてる、ほんまにあかんで」
カギを置いたまま出かけようとするわたしを呼び止めた。しゃべれている。はっきりと。26年間、ずっと、うまくしゃべれなかった弟が。
たった二ヶ月やそこらで一体なにが。駅前留学でもしたんか。
もちろん、ボキャブラリーには限りがあるが「やったー、ハンバーグや!」「またまた、こんど会おね、ほなね」など、日に日に増えている。
さらに、言葉だけでは飽き足らず。
わたしが風呂から上がると、弟がリビングに立っていた。片手にタオルを持っている。
「良太、お風呂……」
弟は振りかぶり、タオルを前に投げる。そして帽子のつばを持ち上げるようなふりをした。
野球の投球ポーズであった。
弟は野球にまったく興味がない。ルールだってわからない。試合を見たこともない。なぜ、とつぜん、野球を。
弟は投げたあと、右手をおでこあたりの高さに持ってきて「パシッ」と口走ると、手のひらを閉じた。キャッチャーから投げ返されたボールを、マウンドで受け取る素振りだ。なんて、細かいんだ。
「えっ、うそやろ、野球?」
気がついたら、母がいた。わたしと同じようにびっくりして、口を押さえたまま絶句していた。
「なあ。いきなり野球して、どうしたん」
弟に話しかけると、こっちへ歩いてくるが、途中でしゃがみこんだ。なにかを左手で拾うふりをする。それも二回。
あっ。
世界のショウヘイ・オオタニ……?
米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平選手だ。どうして神戸に。いや、どうして弟に。思いもよらなかった形態模写に、リビングは騒然とした。だからなんだというのだ。
「だれから教わったん、それ」
「まことくん」
「そっか、まことくんか」
誰や。
「グループホームの人?」
「うん」
「いつも誰としゃべってるん?」
「まことくんと、おいちゃん」
「おいちゃんかあ」
誰や。
弟はふんふんと鼻で歌いながら、風呂場へ消えていった。
まことくんとおいちゃんの正体は、しばらくして判明した。
母がグループホームへ弟を送りにいったとき、庭でぶんぶんとバットの素振りをしている爽やかな青年がいたそうだ。
青年はこちらに気づくと、ニカッと笑った。
「きっしゃん、おかえり!」
シュッとした長身、スポーツ刈りの髪、バット、そして着ている服の刺繍は『OHTANI』で、もちろん背番号は17。彼がまことくんだ。すぐわかった。
「うわーっ!きっしゃん、髪切ったんか、めっちゃ似合ってるやん」
散髪してきたばかりの弟は照れる。
「あとで野球しようや」
まことくんと弟は、グループホームへと吸い込まれていった。
まことくんは弟とおなじ入居者で、軽い知的障害があるらしい。ナウい言い方をするとルームメイトだ。
中谷のとっつぁんが言うには、2人で野球をするときはまことくんが教えて、星野源さんのダンスをするときは弟が教えて。休みの日はカラオケへ行く約束をしているという。
まことくんはとにかく爽やかで、シャキッとして、かっこよかった。
でも弟より年下なので、そこはかとなく、弟が先輩風を吹かせているように見える。慕ったり、慕われたり。まことくんの話をするとき、弟はどこか、自慢げだ。
おいちゃんは、送迎をしてくれるドライバーさんだった。
名字は違うので、たぶん「おじちゃん」がなまっているのだと思う。中谷さんのことは「おとさん」と呼んでいるので、バリエーションがある。
毎日、グループホームと作業所まで、送り迎えをしてくれている。週末の金曜日は実家まで送ってくれるので、片道30分弱のドライブになる。
その間、おいちゃんは、弟にたくさん話しかけてくれるのだ。
ハンバーガーとコーラ片手に弟が帰ってきたときもあった。小腹がすいたら、マクドにドライブスルーしたと見た。
弟は健康診断で肥満ぎみ、おいちゃんもおいちゃんで重めの病気で治療をしていると知ってから「あんたら、ドライブスルーしとる場合か!」と思ったが、たまになら、まっ、いいか。気絶するほど美味しいもんなあ、そういうときのマクドって。
ほんで、弟のオバチャンっぽい言葉は、おいちゃんの影響を受けているとみた。高度に熟成したオジチャンはオバチャンと区別がつかない。逆もまた然り。弟は最近、腰の後ろで手を組みながら歩くなど、熟成してきた。
おいちゃんのほかにもう一人、朝の送りを担当してくれるドライバーさんがいるのだが、この人もすごく優しい人だ。朝の弟の体調を心配している母にいつも、あたたかく寄り添った言葉をかけてくれる。
グループホームでまことくんやおいちゃんに出会って弟は、急にしゃべりが達者になったのである。
これが、ともに暮らす、ということなのか。
毎日、顔をあわせるくらいだとか、ご飯を食べるくらいだとかなら、そんなにしゃべらなくて済む。
弟はしゃべりたくても、相手がその気じゃない、なんてことはざらにあっただろう。弟の言葉は聞き取りづらいし。
でも暮らしていると、黙ってばかりではだめだ。
暮らしには、悩みや問題がつきものだ。家のなかの居心地が悪いと、いろんなことがしんどい。だからコミュニケーションをとる。なんとかしようとする。
200万年前から、わたしたちはそうしてきた。マンモスをはさみ撃ちにしながら、洞窟で石槍をみがきながら。話して、話して、話し尽くしてきた。
きみと一緒に、楽しくやっていきたい。
そのシンプルな気持ちが、弟に言葉を喋らせた。
思ってることを伝えただろうし、遊びたくて学んだろうし、好物を教えあって食べただろうし。いいことも、悪いことも、全部。
まことくんや、おいちゃんが喜んでいるところを見ると、もっともっと伝えたい、と弟は思ったんだろう。
家族や、先生や、作業所の職員さんたちだけでは、こうはならなかった。
伝えたい人がいる、というのは、言葉が上達する一番の衝動だ。
わたしだって、そうだった。小学校でうまく友だちができなくて、それでも誰かと話したくて、必死でパソコンのキーボードを叩いた。ローマ字を覚えた。インターネットの大海原をさまよって、掲示板に書き込んだ。
あの薄ら暗くて、眩しく愛おしい日々が、いまのわたしを支えている。
母もわたしも知らない人間関係を、弟はつくっていた。
そのことが飛び上がるほど嬉しくて、本当は、ちょっと悔しい。なんとも喜ばしい悔しさだ。こんな悔しさが、世の中にはあったんだ。
お金があれば大抵のことはなんとかなる、と思っていた。
だからわたしも母も働き続けた。わたしたちが先に死んでしまったとしても、弟は辛い思いをせず、生きていけますように。そのためにお金を残そうとした。母は頑張りすぎて、病気で倒れてしまったけれど。
実際、お金があったから、このグループホームに入居できた。
車を買えたし、ドライバーさんを雇えたし、看板を立てられたし、乾燥機も買えた。お金でなんとかなった。それは紛れもない事実だ。
でも、お金がすべてじゃなかった。むしろ、わたしのお金では、どうにもならないことが残っていた。
人柄は、お金では買えない。
伝えたいという衝動も。わきあがってくる言葉も。毎日のおかえりとただいまも。なにかあったときに降ってくる「ええやん!」と「えらいこっちゃ!」の響きも。助けたいと思うことも、助けられたいと思うことも。見返りのない、ちょうどいい小ささの愛も。
それは母とわたしが何億円の大金を残したとしても、弟に残してやれないことだ。
弟の幸せにとって本当に必要なのは、グループホームそのものではなくて、一緒に暮らす友だち、だったのだ。
というか、弟だけではなく、みんな同じだと思う。心の拠り所を探している。奪われることに怯えるのではなく。与えあうことを喜ぶような、自分の居場所を。
弟は見つけた。手さぐりで、たくましく掴んだ。
晴天を見上げたときみたいに、心底気持ちよく拍子抜けしてしまった。
人づきあいが苦手な姉は最後の最後で、頼りにならない。結局、弟に頼ってしまう。そんな姉であることが、誇らしい。
送迎車を買ったとき、母は苦しそうに打ち明けた。
「奈美ちゃんにばっかり頼ってしまってごめん。ほんまは、わたしがもっと稼がなあかんのに」
・「姉のはなむけ日記」の後半は、キナリ★マガジン(月額1,000円)の購読者さんのみが読めます。
・購読料はすべて弟が入居予定のグループホームに寄付するお金(送迎車の購入費、支援員の人件費など500万円程度)に充てます。
・連載期間中、一度でも購読すると、数ヶ月後にこの連載をまとめた書籍(約200p)が無料で届きます。記事最下部のフォームからお申し込みください。
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2022/9/1