国道沿いで、だいじょうぶ100回
子どものころ、大人気のお歌があった。
「奈美ちゃん、奈美ちゃん、どっこですか〜♪」
先生が歌えば、
「ここでっす、ここでっす、ここにいます〜っ♪」
子どもらは大喜びで、返事をする。
母が歌う。
「良太くん、良太くん、どっこですか〜♪」
弟はいつもどこかにいたけど、それは絶対に、ここではなかった。
ジッとしてられない弟だった。
だまってられない弟だった。
保育園でも、小学校でも、歩道でも、公園でも、どこでも無尽蔵に跳ねまわっていた。軌道がまったく読めないので、スーパーボールみたいだ。
捕まえられるのは、母だけ。
母が弟を取り押さえるときの爆発的な初速は、ご近所の間で「神戸市北区のフローレンス・グリフィス・ジョイナー」と褒め称えられていた。
小学校へ入学すると、弟はさらに速く、そして給食によって重くなり、体当たりでしか止められなくなった。
母はまもなく「神戸市北区のリーチマイケル」の称号も得た。全人類未踏の二冠。
その弟が、国道へ飛び出した。
一瞬だった。
母の足の間を急回転ですり抜け、彼にしか見えないなにかを追って、自由な魂みたいに駆けてった。
道路のド真ん中で、弟はピタッと立ち止まる。
凍りついていた母の時間が動いた。声も枯れる絶叫だった。母は死ぬつもりで体を投げ出し、弟が着ていた服のフードをガッと掴むと、歩道へと引きずり戻した。
大型トラックが、轟音で走り去っていった。
あと5秒、遅れていたら、だめだった。
母は地面にへたりこみ、震えながら、弟を抱きしめて離さなかった。
そのとき、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
泣きながら母が繰り返していた言葉を、わたしは忘れない。
幼かったわたしには、知らないことがたくさんあった。
弟が、ダウン症という障害で生まれてきたこと。
弟が手をつなぎたがらないのは、手のひらに触れると、金タワシで目一杯こすられるぐらい神経が過敏なこと。
弟がフード付きの服ばかり着ていたのは、もしもの時の命綱だということ。
フードを引っ張り、必死で弟の命を守ろうとする母の姿が、遠巻きの視線にさらされていたこと。
弟がおもちゃを持って近づこうとすると、親からそっと手を引かれて、離れていく子どもたちがいたこと。
「愛が足りない」「しつけがなってない」という療育の先生の言葉で、帰り道に母が唇を噛みしめながら、弟に頬をよせて泣いていたこと。
どんなに疲れ果てても、悔しくても、母が笑顔を絶やさなかったのは、弟を嫌わないでいてくれる人が、弟の命を守ってくれる人が、どうかひとりでも増えますようにという祈りの形をした最終兵器だったこと。
そんなことはなにひとつ知らなくていいように「奈美ちゃんと良太が生きてるだけで、ママは嬉しい」って、母が何度も何度も、言い続けてくれたこと。
わたしは、なんにも。
いま、あの日に戻れたとして。
国道沿いの道で、へたりこんで、泣いている母に会えたら。
「だいじょうぶ」って、100回言ったる。
100回言いながら、100回背中をなでる。
だいじょうぶ。
だいじょうぶやで。
なーんも、まちがってない。
あなたが良太を愛してることも、愛したいことも、ちゃんと知ってる。そういう温かな気持ちを引き出してくれるのは、良太やってことも、ちゃんとわかってる。
だいじょうぶ。
たいへんなことも、みじめなことも、泣けてくることも、あるやろうね。その言葉にできへん愛おしさが、他の人へ伝えられへんことほど、悔しいことってあらへんよね。胸が潰れる痛みなんて、良太は知らんでええよね。
だいじょうぶ。
良太がピャーッて走り出して、良太にしか見えない美しい世界を夢中で追いかけられるのは、あなたが命を守ってくれたおかげやから。よくわからんくても、それは良太にとってきっと大切ななにかやって、信じられるあなたはすごいんやで。
大切な人が大切にしているものを、大切にできるっていうのは、それだけで愛やって、だれかが言うとったからね。
モナリザあるやろ、モナリザ。あれ描いたダ・ヴィンチを「ワシャようわからんけど、イケてんとちゃうか」って最初に信じて、守ってくれた人がおったから、モナリザはあるんよ。あなたがやってることはそれと同じよ。ダ・ヴィンチ育ててるようなもんよ。すごいことよ。まあ、誰にも見えへん、モナリザやけど。それもオシャレでええやん。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
良太も、ぜったいわかってる。
あなたから受け取ったものを。
だいじょうぶ。
なんもまちがってないよ。
なんも謝ることもないよ。
いや、謝らなあかんことも、ちょっとあるか。
保育園で飼ってる亀をさ、なんぼキツく叱っても、良太は円盤みたいに投げようとしてたもんな。あれは肝冷えたよな。遊んであげてるつもりらしけど、なかなか、わからへんのよな。
やけども、亀は投げられへんかったし、だいじょうぶ。亀は万年、だいじょうぶでんねん。
そういうの、謝り疲れたと思うから、わたしがぜんぶ謝ったるよ。ごっつい甘えたらええよ。謝るのも、引き止めるのも、あなたにしかできへんことじゃないよ。
甘えることは、あなたにしかできへんけどな。
ええねん、ええねん。
わたしは謝るのなんて、得意やから。
ってか、これ、世渡りの裏技やねんけど、他人が謝るほうが、丸く収まることもあんねん。
上沼恵美子様がよう、やっとるやろ。関係ない芸人の喧嘩の中に割って入って、周りが引くぐらいブチギレて謝ってるやろ。あれや、あれ。
ひとりで「ごめんな」って背負わんでも、みんなで「ごめんな」をわけわけしたら、ええねん。
待たされるのもな、めちゃめちゃ得意。
全日本待たされ選手権大会があったら、強化選手まちがいなしよ。
だいじょうぶ。
良太のせいで、バスの到着が遅れても、授業はじまるのが遅れても、ええねん、ええねん。人生は長いねん。わたしみたいなポンコツでよかったら、なんぼでも待たしたって。待つだけで役に立てるんやから。
だいじょうぶ。
だいじょうぶって、言わせてほしいのよ。
渡る世間は鬼ばかりな世の中やろ。誰かにだいじょうぶって言えることがな、わたし、うれしい。そういうことを言える、余裕あって、優しい自分でおらせてくれて、おおきに!徳ツムツムできた!ってな、こっちが言いたいぐらいやから。
あの時、あなたは、良太を抱きしめてたね。
「無事でよかった」でも、「なにしてんねん」でもなくて。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」って、言い聞かせてたね。
あれ、意味わからんかったけど、今はわかるよ。
良太は、一生懸命に、生きてるんやもん。それだけでさ、大丈夫やって、言ってあげたいよね。誰かに指さされても、クラクション鳴らされても、きみの人生はなにひとつ損なわれないって、約束してあげたいよね。
だいじょうぶ。
良太が駆け抜けていったのは、あなたの愛をね、ちゃんと受け取ってるからやと思うねん。そういうのを背中に感じるとね、わたしら子どもは、自分を信じて、迷わず駆け抜けられるんですわ。
それが道路なんは、危なかったけども、人生という名の原っぱやったら、これほど心強い能力はないよ。
大丈夫。
わたしがそういう根拠のない自信を、心の底から放てるのは、だいじょうぶって言うてるあなたを、この目で見たからやねん。
あの時、良太を抱きしめてくれて、ありがとう。
良太に「だいじょうぶ」って言ってやってくれて、ありがとう。
わたし、良太が生きてて、うれしい。
こんなわたしを、頼ってくれる良太が生きてて、うれしい。
あなたのおかげで、ちょっと、この世界は優しくなっとるんやで。わたしと一緒に、だいじょうぶって言ってくれる人もな、けっこうおるで。
もうだいじょうぶ。
ほんまに、ずーっと、ぜったいに、だいじょうぶに、する。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
泣くこたないない。
100回言ったる。