【キナリ★マガジン更新】どんつきで、親子を続ける

 

実家のすぐそばに、しょぼくれた公園があった。

屋根つきのベンチはそこにしかないのに、わたしが小学生の頃から、先客はいつも決まっていた。

淳二くん。


このあたりで、淳二くんを知らぬ者はいなかった。

ベンチを朝から晩まで占領しているのに、誰も淳二くんには文句を言えなかった。


淳二くんには、障害があった。
自閉症だった。


ひざの上で抱えられたラジカセは、常に爆音で鳴り続けていた。

何聴いてんだろと思って、こっそり近づいたことがある。

『……トンネルに行くわけですね……するとね……向こうの方からスーッと、スーッと、来るんですね。怖いなー、怖いなー、って思いながら……』


い……
稲川淳二だ……


みんなが言ってた、淳二ってアレ、あだ名かよ!

誰も本名を知らなかったことが判明した。

怪談がノンストップで轟く公園には、何人たりとも近よれなかった。泣き出す子どもが続出し、そのうち、警察がやってきた。

でも、淳二くんは公権力に屈しなかった!

警察を無視どころか、初めから存在しないかのごとく真顔の淳二くん。あまりにもパンクだった。

警察は消え、代わりに、淳二くんのお母さんがあらわれた。

「あああああああっ!ああああああっ!」

夕方になると、公園中に淳二くんの金切り声が響き渡る。

淳二くんのお母さんが、ベンチに爪を立ててしがみつく淳二くんを、引きはがす。

ヒョロッと痩せてるとはいえ、暴れる18歳の淳二くんを取り押さえるのは大変だ。

ガンッ!ガンッ!

淳二くんが、屋根の柱に、頭をぶつける。

言葉にできない怒りを、ありったけの痛みに変換して、頭蓋骨をブチ割ろうとする。

障害のある人の中には、傷つけたいわけではなく、途方もない不快感で、身体が勝手に跳ね動いてしまうことがあるそうだ。何十年も後になって知ったことだけど。

「あかん……あかん……」

淳二くんのお母さんが抱え込む。

そのお母さんを、淳二くんははね飛ばす。

小学生だったわたしたちが手伝えるわけもなく、大人だって誰も手伝わなかった。毎日のように繰り広げられる攻防の横を、みんなは早足で歩き抜けていた。

淳二くんのお母さんは、泣くことも、叫ぶこともせず、ズリ……ズリ……と、ちょっとずつ淳二くんを引きずっていった。

わたしは動けなかった。

“お母さん”という全知全能の存在が、全力で傷つけられている光景を、生まれて初めて目の当たりにして、ドン引きしてしまった。

けれど、今ならふたりを、当時とはまったく違う言葉で、語ることできる気がしている。

この重たい話の先を書くのは、そのためだ。

わたしが高校生になっても、淳二くんは公園にいた。

ある日、母の代わりにゴミを捨てに行くと、

「あれはもう、家でなんとかできるレベルじゃないわ!今すぐにでも施設へ預けたほうがいいと思う!」

民生委員という、地域の見守りを何年もしているおばちゃんが叫んだ。

世話を焼くの好きだけど、それと同じぐらい、家庭の痴話も好きな、目が沼色に輝く女だった。

「淳二くんのお母さんにだって、自分の人生を選ぶ権利があるのに!」


そうよそうよ!
場が湧き立った。

どうしたらいいかわからなかった。

ものすごい熱量の“優しさ”がドカーン!ドカーン!と噴火し、“お助けマグマ”となって、淳二くんのお母さんのもとへ駆け巡っていくのに圧倒された。

わたしの弟が小学校へ通うことになった時も「障害のある弟の面倒を見て、えらいね!」と、先生がべた褒めしてきて鬱陶しかった、あの謎ムーブに似ている。

けど、弟と淳二くんでは、全然、事情が違うしなあ……?

果たして、何が正解なのか、そもそも正解なんてあるのか、わたしにはわからなかった。

「もう見てられん!今日、淳二くんのお母さんに言うわ!」

「うんうん!」

盛り上がる輪の中で、答えを出せず、わたしは存在をできるだけ透明にし、マグマのしんがりで黙っていた。


民生委員のおばちゃんを先頭に、一団は公園に突撃した。

「淳二くん、体力が有り余ってるんとちゃう?そこの警察署で空手を習えるみたいやから、行ってみたらええよ!紹介しよか!?」

淳二くんのお母さん、ポカーン。

ぼさぼさ髪のまま、顔だけで苦笑いして、

「けっこうです……」

と、帰っていった。

淳二くんのお母さんは、四方八方から親切にされ続け、だんだん様子がおかしくなった。

誰かと目が合うと、ギュンッと方向転換し、逃げるようにどっかへ去ってしまう。

淳二くんのお母さんは、人前へ姿も現さなくなった。


「ついにカラダ壊したんかと思って、ピンポン鳴らしてお茶に誘ってみたんやけど、居留守されてんねん」

民生委員のおばちゃんは、がっかりしていた。

みんなで淳二くんのお母さんを救ってあげようとしていたはずが、救済会議は、糾弾会議へ変わった。

「あのお母さん、もう麻痺してはるんやわ!」

「どんだけ大変な状況かわかってない!」

「虐待されてるし、っていうか、虐待してるのと同じやのに!」

救いの手は、はねのけられ続けると、「助けたい」が少しずつ「なんで助けさせてくれへんねん」の悲しみへ、そして最終的に怒りへ変わっていく。

民生委員のおばちゃんたちの「助けたい!」という善き心は、本気だと思う。

本気だから、激しい感情が生まれる。何もできない無力感や、見過ごしてしまう後悔に怯えて、彼女たちは不条理に立ち向かっている。

傍観するだけの卑怯者だったわたしに、誰かが言った。

「……そうや。奈美ちゃんのお母さんから言ってもらお!」


うちの母に、白羽の矢が立ってしまった。

母はダウン症の息子(わたしの弟)を育てた。
立場が似ていると思われた。

母は病気で入院していたので、今や引退した伝説の老兵扱いで、こういう集まりの中心に呼ばれることは激減していたが、

満を持して!召集!

しかも、淳二くんのお母さんとも接点がある。

……と言っても、あいさつするだけの仲だけど。

「暑いですねえ」

と、母が言うだけ。

「そうですねえ」

と、返されるだけ。

明らかに疲れ果てている淳二くんのお母さんにも、母はあっけらかんとしていた。

もうひとつ、こんなこともあった。

わたしと母が外へ出ると、淳二くんが、マンションの共用水道の水をジャバジャバ出しまくっていた。

足元には池ができていた。
さすがに通報される量だ。

淳二くんのお母さんが、少し離れたところで、立ち尽くしていた。

「こんにちはあ」

母、今、声かけるんや?
わたしは内心、ひっくり返った。

「すみません……水が……水で……水を…」

淳二くんのお母さんは、近未来で朽ち果てたロボットのように繰り返した。

「……うちの息子も、友人の息子も、プールか温泉に漬けとくと、おとなしくなるんですよねえ」

母がのん気にほほ笑むのを、わたしはガン見した。

そ、その世間話のチョイスで合ってる!?

淳二くんのお母さんもさすがにドン引きするんではと思ったら、

「スーーゥゥゥゥゥッ」

踊るさんま御殿かと思うほど、見事な引き笑いが聞こえた。

淳二くんのお母さんが、なんか、ウケていた。


「ねえ!ほんとに、漬けといたったらねえ!」

よその人から見たら、普通の主婦が、漬物の話で笑っていると思うだろう。本当は全然普通じゃない、重い障害のある息子たちの話なのに。

そんな母だったから、民生委員のおばちゃんに見込まれた。

「あなたの言うことなら聞くと思うから、説得してあげてよ」

「説得?なんて?」

母が素っ頓狂に聞き返した。

「今のうちに役所へ頼って、福祉施設に淳二くんを入れるように」

「あーっ!ごめん!それはできへん!」

母はナハハと笑った。

大地をも分かつ一刀両断っぷりに、民生委員のおばちゃんも、わたしも、ホゲェ〜!?となった。

この母が、頼みを断るなんて、めずらしい……。

明るく、やわらかな心を持ち、カルチャー教室の先生からフライパンや健康になるエビの一番搾りエキスをすすめられたら買ってしまうほど、押しに弱い母だった。

だから、まさか、断るとは思わんかった。


不満げに帰っていく民生委員のおばちゃんを見送りながら、心臓がバクバクした。

母が、嫌がらせを受けるんじゃないか……?
村八分とか、これ、あるんじゃないか……?

うちの家、刃牙の家みたいになるんでは…!?

でも、日常は何も変わらなかった。

何年も経ち、わたしは実家に月二度ほどしか帰らなくなった。

淳二くんのこともすっかり忘れていた。

「淳二くんってな」

母が、話し出すまでは。


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