【キナリ★マガジン更新】吠えろ!麻布台ヒルズ
東京に泊まり込んで仕事をしていたら、母も上京してきた。
「港区で時間を潰したいねんけど」
50代後半となれば思いがけぬ階段を、一番飛ばしで駆け上がることもあるのだろう。昭和バブルのきらめきを失わず、港区老女への道をひた走ろうとする親と対峙する人間にしかわからないであろう動悸を抱え、今、わたしはギリギリで立っていた。
「そういうのでなく、港区の講演に呼ばれただけやねんけど」
ただの仕事でした。
とはいえ、港区で時間を潰した経験などわたしにあるわけがない。港区は時間に潰されに行くところでしょうが。
「ふうん。それなら麻布台ヒルズとかどうよ?」
慣れた感じで提案したが、行ったことはない。なんか東京のすごそうな土地に、すごそうな建物ができたと、風の噂で聞いてただけ。
右から左にノー検品で吹き流れてきただけの風の噂を、母は承諾してくれた。ついでにわたしも同行したのだが、まさかあんなことになるとは思わなかった。
麻布台ヒルズは、想像を越えて、麻布台にヒルズしていた。なんつうか、丘の上にそびえ立ってた。裏手には古い住宅街とか寺とかあんのに、急に視界をこじあけて無機物がヒルズしてくる。
タワマンとタワマンとタワマンが大ヒルズしている間に、オフィスが中ヒルズし、隙間を縫ってショッピングモールが小ヒルズしている。
駅のポスターには、
「自然と調和しながら、人間らしく健康的に暮らす」
だと。なるほど。ここは暮らしを重視して作られた施設なのである。そう言われたら、ベビーカーを押す夫婦や、ランドセルを背負った子どもたちもいるではないか。
いざ、麻布台ヒルズへと足を踏み入れた。
子どもたちとカリッカリの犬が走り回る中庭を、エルメスとカルティエとディオールが取り囲んでいた。
く、暮らし……とは……?
わたしの小学生時代など、マックスバリュと100円メロンパン屋台とコーナンが暮らしの全てだぞ。
やばすぎる。想像を絶する東京の暮らしがわたしをタコ殴りにしてくる。ジャブなどという生ぬるい打撃ではない。エルメスが正確にレバーを突いてくる。
うろつけばうろつくほど、わたしの息の根が止まるか、麻布台の治安が下がるか、地獄の一騎打ちになったので、ここは大人しく、お茶でもすることにした。
どこもかしこも小洒落たカフェばかりで、混んでいる。
その中で、唯一、親近感をくすぐられる素朴な店がまえ。ここだ。ここにしよう。
入口には白いシャツで腰エプロンを巻いた、おじさんが立ってた。立ってたっていうか、突っ立ってた。
無。とにかく全身から無を発していた。
店員というより衛兵。
おじさんがぴくりともしないので、話しかけると「ああ、はい……」と魂から直で一番搾りされたような無加工の声が返ってきた。
胸にかかげられた名札は真っ白。まぶしい白さ。ゆえに名前はわからない。
失礼を重々承知であえてわかりやすいように書かせていただくと、見た目が雨上がり決死隊の蛍原さんをマヨネーズで和えて冷蔵庫で寝かせた感じのお顔だったので、親しみを込めて、心の中で彼を「ホトちゃん」と呼ぶ。
テーブル席につくと、どこからか、妙になつかしいレモンの匂いがした。
「レモネードでもあるんかな?」
わたしがワクワクしてつぶやくと、母が言った。
「ちがう。これ、たぶん、消臭力の……」
ホトちゃんが通りすぎた。レモンの風が吹き抜けた。レモンの出どころはホトちゃんだった。
麻布台ヒルズが一気に実家ぐらい近くなった。
わたしたちがメニューを見ている間、ホトちゃんは机を拭いていた。
店では他にもうひとりの店員さんが、料理を運んだり、注文を取ったり、せわしくなく動いていた。しかしホトちゃんはずっと机を拭いていた。ものすごい爆速である。生まれたての岡村靖幸みたいな手つき。残像が見える。
「あっ」
わたしたちの机を見て、ホトちゃんが声をあげた。そして、水とお手拭きを持ってきてくれた。
ちょうど昼どきだったので、わたしたちはコーヒーとホットサンドイッチを注文した。ホトちゃんがメモを取る。
その時、キッチンから、
「提供、お願いしまーす!」
と声が飛んできた。
ホトちゃんはあわててキッチンへ向かう道中、
メモをぐしゃっと握りつぶして、エプロンの中へ押し込んだ。
ものすごくいやな予感がした。
そういう予感はだいたい当たるのだ。
待てど暮せど、飲みものもパンも来ない。
「おかしい……他のお客さんは料理きてるのに……」
わたしたちのすぐ前に入店した客のテーブルが、さっさとサンドイッチを食べ終わって、会計に立つところだった。
机を拭き続けているホトちゃんに、
「注文通ってますか?」
と聞いた。
ホトちゃんはふらふらと、吸い込まれるようにキッチンへ聞きに行った。
何もかもが洗練された麻布台ヒルズの中で、ホトちゃんの動きだけが、とても人間らしくてホッとする。がんばれホトちゃん。待ってるぞホトちゃん。
この店はカウンターキッチンで、客席からも調理風景が見えるようになっている。わたしたちはホトちゃんの自信なさげな背中を見守っていたが、戦場のようなキッチンの前で、ホトちゃんはあわあわと立ち尽くすだけだった。
おかしい。
他の店員さんが、ホトちゃんには目もくれず、押しのけるようにして自らの仕事に没頭している。
「あの……いちおう……つくってるかと……」
戻ってきたホトちゃんは、困り果てた顔で言った。いったいこの店に、何が起きていると言うんだ。
15分は経っただろうか。
わたしたち以外の客は、全員入れ替わり、隣には強面の若い男性と、麻布台に手と足をつけたような美しい女性のカップルが座った。
その二人のもとに、ホットサンドが運ばれてきた。わたしたちが注文したやつと同じである。豪快に挟まれたエビフライの死んだ目が、わたしを静かに見ていた。
「あれ、うちのエビフライでは……?」
他の店員さんにたずねると、彼はチラッと伝票を見て「ちがうエビフライです」とだけ言い、去っていた。
エビ違いかあ……。
カップルがホットサンドを食べ終わる頃、通りすがりのホトちゃんを呼び止めた。
「ああっ……」
ホトちゃんが弱りきったような顔で空を仰ぎ、よろよろとキッチンへ戻っていった。わたしと母は待ち時間などもうどうでもよくなってきて、ただただ、手に汗を握りながら待った。体感的には『走れメロス』を読んでる時の心境と同じである。がんばれ、ホトちゃん。
そして!
戻ってきたホトちゃんは!
机を拭き続けた!
「な、なぜ……!?」
隣の席の男性が「すげえな。おれならキレてるわ」と笑った。気づいてんならあんたがエビフライサンドくれよと叫びたくなった。空腹は人を狂わせる。
わたしも母も、こんなことでは怒らない。
わたしはおっちょこちょいで仕事をミスしまくるし、母は奇想天外な動きをする弟を育ててきたからだと思う。一生懸命に働いている人は、ちょっとしたミスがあろうとも、働いているだけで尊い。
なんとなく、ホトちゃんの肩身の狭さだってわかる。応援したい。なんなら、いっそ、手伝いたい。だが空腹も限界なのだ。サンドイッチさえ……サンドイッチさえあれば……!
わたしはもう一人の店員さんにたずねた。竹をなぎ倒すかのような勢いだった仕事のペースを乱されたことに、少し不機嫌そうな店員さんは、
「はあ……聞いてきますね」
と言った。
「さっきも聞いてもらったんですが、通ってませんか?」
「誰に聞いたんですか?」
わたしと母が、ホトちゃんを見た。
店員さんはフフッと鼻で笑った。
「ああ……あの人は、タイミーさんなので……」
タイミー?
ってなんだっけ。WEBで見たCMの映像がぼやっと浮かんできた。面接なしで採用する、助っ人アルバイトのサービスだ。
「そ、そんな……でも……同じ店の人じゃないですかあ……」
わたしは語尾に「ぁ」が三つぐらいついたような声を、反射的に出してしまった。それがいけなかった。
店員さんは疲れ果てたように、
(わかるでしょう?つらいんですよ、わたしたちも)
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