【キナリ★マガジン更新】ドアの向こうは小さな宇宙
殺風景な廊下の奥には、人生そのものが息をする部屋があった。
あのドアを開けた時の光景は、たぶん一生忘れない。
その部屋は、フィンランドの高齢者が暮らす施設の中にあった。
案内してくれたのは、日本で結婚して、日本に20年住んでいたというスンドマンさん。
「うちのボスのお母さまが暮らしていた場所で……いいところだと教えてもらったんですよ」
ヘルシンキから30分ほど路線バスに乗って、降りた場所はふつうの住宅街だった。
「こんなとこに施設があるんですか?」
「もう着きましたよ」
「えっ!?」
あまりにも普通すぎる家だった。近所の家と見分けがつかない。
よく見ると年季が入っているけど、味のあるどっしりした建物で、花や植木がブワッと彩られている。
「もともとは地元の家族が住んでいた邸宅だったんですって」
なるほど、それで家っぽいのか。
玄関をくぐる時に思わず、
「おじゃまします」
と、言ってしまった。
ここで暮らしているのは、高齢の認知症の人たちだ。
ちょうどおやつの時間で、リビングには10人の入居者さんと、4人のスタッフさんが集まっていた。
まず、目に飛び込んだのは、入居者さんの服だ。
めーっちゃ、おしゃれェ!
70歳から90歳ぐらいまでの人が集まっていて、みんな、カラフルでいい生地の服を身にまとっている。水玉の膝丈ワンピースを着たマダムなんて、最高だ。
「わたしたちが来るから、おしゃれしてくださったんですか?
「……?」
スタッフさんはきょとんと顔を見合わせた。それじゃアレかい、いつもこんなにおしゃれだっていうのかい。ピーコも真っ青。
「コンニチハ、アリガトー」
マダムが手をあげて、笑いかけてくれた。おしゃれは準備してないけど、日本語の挨拶は準備してくれていた。
あっ……と思った。
マダムのワンピースの脇のところがほつれて、大きな穴があいていた。今じゃ売ってないぐらい上等だけど、かなり年季が入った服みたいだ。
入居者さんたちがおやつ片手におしゃべりして、古いレコードプレーヤーからは音楽が流れている。どの人も穏やかで元気そうに見えるけど、自宅では暮らせないほどの認知症だ。
施設の中を見学させてもらった。
キッチンやサウナは邸宅のものを使っていて、これもまた、施設っぽくなかった。家のやつだ。
スロープやエレベーターなど、必要なところだけ改装したらしい。
「二階が入居者さんたちの部屋です」
ワクワクしながら階段をあがったのに、
「え……」
わたしはがっかりした。
なんか、人気のない病院みたいだ。
廊下には手すりがはり巡らされていて、ズラッと並んでいるドアはネズミ色の鉄製で、銀色のダサいノブがついてる。どれも改装されて新しいけど、家の古い木材にはてんで似合ってなくて、無機質だ。
っていうか、殺風景だ。
ドアの前には、コピー機でジャッと印刷した紙がペッと貼り付けられていた。
『Ilma(エルマ)』
表札代わりらしい。なんて安っぽいんだ。
フィンランドでも、こんなもんか。
わたしは消沈した。
北欧の福祉はすごいとか、暮らしを大切にしてるとか聞いてたけど、これじゃ日本と変わらない。それは遠い昔の話だったのかもしれない。
ガチャ、と部屋のドアが少し開いた。
かわいらしいおばあさんの顔がのぞいた。
白色のニットのワンピースを着ていたので、一瞬、誰かわからなかった。さっきリビングで、水玉のワンピースを着ていた人だった。
このおばあさんが、エルマさんだ。
「お入りになるかしら?」
「いいんですか?」
「どうぞ、いらっしゃい」
おばあさんがニコッとして、開けてくれた。
一瞬、立ち尽くしてしまった。
無機質なドアの向こうに広がっていたのは、おとぎ話の世界だった。
白い壁と天井の部屋に、陽の光がレースカーテン越しに、やわらかく差し込んでいる。子どもの寝室ぐらいの大きさの部屋には、アンティークの家具たちがたくさん。どれも白色だけど、木の色が透けていて、何十年という時を大切に重ねてきたのがわかる。
引き出しのつまみひとつひとつに、花の形が彫られてあって、金色が鈍く輝いていた。宝物みたいな家具たちだ。
なんというセンスのよさ。
どこを切り取っても絵になる。
クローゼットの上には、編み棒と毛糸のカゴがちょこんと置いてあって、
「えっ、まさか……編んだやつ……?」
エルマさんが着ているニットのワンピースを見た。エルマさんは聞こえていないのか、ニコニコして、部屋の奥へと手招きした。
「いらっしゃい」
小さな小さなベッドの上には、もうひとり、40代ぐらいの女の人が座っていた。水玉のワンピースの脇の穴を針と糸で縫っていた。
わたしと目が合うと、娘さんもはにかんだ。
かわいらしい陶器のお皿にベリーが盛ってあって、ふたりはそれをつまみながら、一緒に縫い物をしていた。
静かで、穏やかで、やわらかな時間が流れていた。
なんなんだ、この部屋……。
あっけにとられて見回した。ひときわ存在感を放つアンティークのドレッサーがあって、その上には化粧品ではなく、何枚もの色あせた写真が並んでいる。一枚ずつ、ハートとか星とか、形のちがう写真たてにおさめられていた。
お人形のようにきれいな、おさげの女の人の写真。
「若いころの母ですよ」
エルマさんは写真とまったく同じえくぼを浮かべて、いまはベッドに座っていた。部屋も彼女も、あまりにも美しかった。
「あたたかい紅茶でもいれようかしら」
エルマさんは言った。ここが施設であることを、わたしも忘れていた。エルマさんも勝手知ったる家のようだ。彼女はずっとこうして、このかわいらしい空間で、客人をもてなして生きてきたんだろう。
「どれぐらい通われているんですか?」
わたしは、縫い物をしている娘さんに聞いた。
「夏は月に二度ぐらいかな」
娘さんは、ちら、と窓際のサイドテーブルを見た。くすんだガラスびんに、一輪のひまわりがさしてあった。
「父も最近、来たみたいね」
ひまわりだけじゃない。よく見れば、あちこちにいろんな花が一輪ずつ、咲くように置いてある。
エルマさんの夫は、いつも花を持ってくるという。スタッフさんたちに見守られながら、エルマさんは毎朝、水をかえるのだ。
結局、エルマさんはお盆を持ったものの、おしゃべりに夢中になって、紅茶は出てこなかった。でもわたしは心からもてなされた気持ちでいた。
夢でも見てきたように、フラフラと部屋の外へ出た。
ドアが閉まる。急に殺風景に戻った。
外から見たら、病院なのにな。
となりの部屋のドアも、開けていいよと言ってもらった。
エルマさんとぜんぜんちがう。
この部屋は、机の上も、ワゴンの上も、クレヨンやカラーペンでいっぱいだった。
「ここの入居者さんは、お絵かきが大好きなの」
壁にはたくさんの絵が貼ってあった。お孫さんが持ってきてくれるらしい。彼女はここで、お返しの絵をゆっくりと描きながら過ごすのだ。
つん、つん。
わたしの腕をつついた人がいた。
「ハロー。イッツ オーリー」
「オーリー?」
「イエス、オーリー」
オーリーは、ぼくの写真を撮りなよと誘ってくれた。ついでに部屋も案内してくれた。太っ腹のオーリー。
オーリーの部屋もやっぱり、他の誰の部屋ともちがっていた。
古い本やレコードがたくさん並べてあった。
机の上にはポストカードが、ボックスぱんぱんに詰め込まれてあった。家族や古い友人たちとの文通で、本や映画のタイトルも書かれていた。オーリーは作品に囲まれて、作品を語って、生きていた。
「これは?」
「電話は必要だろう?」
ボタンひとつで繋がれる名前が、6人分、ボタンのところに並んでいた。オーリーはいつでも家族や友人と、電話でつながる。
この部屋はオーリーが一番、居心地のいい時間のままつながっている。
わたしは、生まれて初めて地元にできたIKEAのモデルルームを歩いている時の何百倍もワクワクしていた。
なんてこった!
家の中に家があるぞ!
殺風景な廊下から、扉を通じて、小宇宙を飛び回るような体験。まるで不思議の国のアリスだ。
部屋には人生が詰まっている。一目みただけで人生が香る。扉を開けるたびに、誰かの膨大な物語がなだれこんでくる。
ハアッ……ハアッ……!
なんだかものすごく満たされた気持ちで、スタッフさんと話した。
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