【キナリ★マガジン更新】八戸観光・印象派

 

昨年の秋、青森の八戸に行った。

講演を頼まれたのはわたしだが、めずらしく、夫のみずきくんも同行することになった。青森が好きらしい。こういうこともたまにある。

到着した日の夜が講演だった。それまで時間があったので、町をプラプラしたが、行きたかった美術館も書店も、示し合わせたように休業だった。こういうことはよくある。

だから一泊して観光することにした。

「おれは十和田湖に飛び込めるサウナ、行ってみたい!」

みずきくんの地元は京都の久御山町である。巨大な池の水を抜きまくって出現した大地という、ファイナルファンタジーの中盤に登場するような故郷を持つ彼は、池や湖の類に強く惹かれる。

夏に訪れたフィンランドのサウナが、よっぽど気に入ったらしい。

フィンランドの湖は、足も見えないほどの藻草色だったから、青く澄みわたった日本の湖に飛び込めるのは、そりゃ爽快だろう。

「朝からレンタカーで十和田湖に行こ!」

「任務、了解」

速やかに寝床についた。ここで気づいておけば、致命的な状況は避けられたとは知らずに。

朝になり、わたしは絶叫した。

「コンタクトがない!!!!!!」

替えのコンタクトレンズを持ってくるのを忘れてしまった。呆然としていると、隣から信じられない声がした。

「コンタクトがない!!!!!!」

お前もかよ!

コンタクトレンズを毎日洗浄することに絶望を感じるめんどくさがりが夫婦になったので、使い捨てのワンデーを愛用していた。別々に荷造りをしておきながら、同時に忘れるなどという珍事は初めてだ。

ハッとして、ゴミ箱をひっくり返す。

「昨日のコンタクトレンズ!蘇生!」

救出したそれは、時すでにカッピカピ。

小学校の教室の水槽から飛び出て、誰にも気づかれぬままお陀仏になったメダカの第一発見者になった時の切なさが蘇った。手遅れである。

蘇生を諦め、わあわあ言いながら手探りで荷物をかき集め、なんとかホテルを出る。

裸眼ポンコツ夫婦が、八戸の地に降り立った。


わたしの視力は0.1。

大きな看板の文字は、目をこらせばなんとか読める。
まだいい。

みずきくんの視力は0.02。

1m離れて立つ灰色の服のわたしが、墓石にしか見えないようだ。彼は焦点の合わない目で、口をあんぐり開け、茫然自失を絵に描いたような顔をしていた。

一瞬で、こいつはもうだめだとわかった。

信号の青き閃光を頼りに、横断歩道を渡る。
慎重に、慎重に。

みずきくんは信号すらも見えず「ぎゃあっ」とか「ひいっ」とか怯えながら、わたしに寄りすがって歩いた。

すれ違う青森マダムたちから、

「まあ、お熱いことねえ」

という、林檎のように熟れた甘い視線を感じるが、実際には、足元も未来も見えていないお先真っ暗な夫婦なだけである。

「そっちちゃう!あっちや!」
「こっち行くで!」

指示を飛ばしながら先を歩くと、みずきくんは何度もつんのめりそうになる。

「待ってえ!待ってえ!」

出遅れる度に、わたしの服がビンッと引っぱられるが、こっちにだって余裕はないので、そのまま引きずっていく。

曽根崎心中?

歩いてすぐのところに書店があったので、窓からのぞいてみた。色とりどりの巨大な山々が見えるだけで、ただただ圧倒されてしまい、とても入る気は起きなかった。というかまだ開いてない。書店はおろか、眼科もドラッグストアも。

「サウナどうする……?」

「運転できんし、十和田湖までたどり着けへんよな……?」

意気消沈しながらサウナに電話をかけたら、営業時間前でつながらなかった。奮発してふたりで2万円近く払ったのだが、当日キャンセルではきっと返ってこないだろう。クラクラする。

話し合って、バスとタクシーで十和田湖まで向かうことにした。

転がり込んだバスの車窓から、奥入瀬の渓谷の美しいであろう景色がぐんぐん流れた。本当はどんなもんか知らない。空も川も人も、すべてがぼやけている。

印象派。

道中には眼科もドラッグストアもなかったが、ご飯屋はあった。

「青森のご当地グルメが食べ放題やて!」

絶望的な八戸観光・印象派でも、これは楽しめそうだ。味覚はまだビンビンに無事だからだ。

「それではこれから90分、お好きなだけどうぞ!」

店で皿を渡されたわたしたちは、愕然とした。

ブッフェ台に並ぶ料理が、何もかも見えない。

あっ、これ!なんか茶色くて香ばしい、餡のようなものが絡んでる、たぶん青森名物の……これは……これは何……!?!?

団子だと思ってトングで掴み上げたシルエットが、どう見ても麺で怖くなった。

まじまじと顔を近づければかろうじて判別できそうだが、こんなとこでそんなことをしたら、一発退場である。

どれもこれも、ぼんやり&こんもり盛られた山にしか見えず、まるで食欲がわかない。ブッフェとは舌より目で楽しむ方が、満足度が高い代物だったのだ。

なにも食べぬうちにドッと疲れたので、あったかい汁だけは確保した。一番目立つ場所にあったから、たぶんこれは名物のせんべい汁と見た。

「いただきまーす」

うどんつゆ!!!!!!!!

舌が醤油で殴られた。

みずきくんの方は

「おれはヒラメ漬け丼つくった!うまそう!」

嬉しそうに大口でかき込んだそれは、ガリだけがドカ盛りされた丼だった。セルフ精進料理である。


バスが来ないので、湖まで渓流沿いを歩いた。

家族づれで賑わっていて、軽いハイキングコースになっているけど、楽しむ余裕など微塵もない。

ずっと目をこらしているので、肩と首がガッチガチだった。左右の確認をするたび、人体から鳴ってはいけないような鈍い音が首から響いてくる。

知らない土地を歩くって、こんなにも大変なことだったのか。

人間は情報の8割を視覚から得ているらしい。そうだろうな。だって目の奥が熱い。体中の血液の8割ぐらいは、目に集まってるような気がする。

NARUTOでヒナタが百眼を使いすぎるとブシューッと流血していたけど、あれ、今ならものすごくわかるもの。

わたしたちの眼球はバキバキに充血していた。山ですれ違う手合いとしては怖すぎる。家族づれとすれ違うたびに申し訳なかった。

ちょっと歩いては、わたしがスマホを鼻先まで近づけて地図を見て、また歩く。根気よく進んでいたが、

「次どっち!?」

「ちょっと待ってや!わたしも見えてへんねん!」

どんどん言葉が刺々しくなり、ケンカ腰になった。物理的に頭へ血がのぼっているのもある。

わたしたちはいま、二人で一つなのに……!
人間って愚か……!

フッとひらめいた。

ああ、うちのばあちゃんにも、これが起きてたんか。

まだ認知症がひどくなる前のばあちゃんとスーパーに行った時のことだ。


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