【小説】彼がいる場所(全文公開)
ユヅルおじさんは、わたしの親戚の中で、いちばん優しい人だった。
頼まれたら、断れない人でもあった。
わたしが、小学生だった時の話だ。
土曜の朝、思いつきで飛び起きた勢いのまま、おじさんの家に早駆けした。
「あのな、わたし、ハムスターほしいねん!」
おじさんは、庭の見える窓際で、ひとり本を読んでいた。この時間は、いつもそうだった。
「ほお。流行っとるみたいやのう」
その頃、おじさんは40歳だったが、もったりした喋り方と太い眉のせいで、年齢よりもおじさんに見えた。
「うちでは飼われへんって、お母さんが言うんや!」
「姉さんはなあ、肛門を丸出しにしとるモンは家に入れとうない人やからのう」
「おじさんの家で飼って!」
「そうくるかあ」
おじさんは困った顔でほほ笑んだ。かくして、チョロい交渉の末、ハムスターは即日、おじさんの家に迎え入れられたのだ。
ばんざい!
木くずをバッサバッサと巻きあげて走る滑車を眺めながら、おじさんは盛大に咳き込んでいた。
「こんなに小こい体で、こんなに一生懸命とはなあ」
おじさんの目には涙がにじんでいた。それは感動の涙に違いないと、わたしは信じて疑わなかった。これは思いがけずよいことをしたので、わたしはスキップで帰宅した。
数時間後。
おじさんが本当は、ぜんそく持ちだったと知った。あれは苦悶の涙だったのだ。
奥さんの透子さんから、怒りの電話がかかってきた。
「わたしが留守の間をわざわざ狙うなんて、こざかしい子ね」
透子さんは、小学生相手にも容赦ない叱咤と嫌味をさんざまくし立てたあと、
「あんたのお母さんに代わりなさい」
研ぎ澄まされた氷柱みたいな声色で放った。わたしは震え上がった。
「もう寝ちゃったみたいです」
「じゃあ今から行く」
「すみません代わります」
母は透子さんと、長い長い、永遠かと思うほど長い電話を終えたあと、鬼になった。地球が割れるかと思うほど、わたしは、しこたま怒られた。こんなことなら、自分でこっそりハムスターを飼ったほうが、ずっとマシだった。
母の猛烈な怒りは、しばらく続いた。その理由は、ハムスター飼育にかかる一切合切の費用と、わたしがおじさん宅にハムスターを見学しに行く度に出す茶菓子代まで、まるっと含めて透子さんからガッチガチに請求されたからだけではなかった。
「子どもも育てたことない女に、しつけがどうの言われるなんて!ああっ!悔しい!」
母は透子さんが、心底大嫌いなのだ。
「あんなエラそうな女に丸め込まれたユヅルが、不憫でたまらんわ!」
おじさんと七つも離れた姉である母は、おじさんのことを、どうも過剰に好いている節があった。
翌日。
ハムスター代を持って、母と一緒に、おじさんちへ行った。それは数年先にわたしがお年玉としてもらえるはずのお金だった。
べそをかくわたしと、形だけは頭を下げる母に、おじさんは「俺も悪かった」と笑った。透子さんは真顔で、お金の封筒を受け取った。
透子さんのすごいところは、場が丸く収まろうとしている時でも、絶対に、愛想笑いをしないことだ。人間はあんなにも仏頂面ができるのかと感心するほど、透子さんは完ぺきな仏頂面を披露し続けた。
母がハムスターを引き取ることを申し出ると、透子さんは仏頂面の最高峰に昇りつめた。
「飼うのに手間がかかる品種だって知ってますか。どうせ知らずに選んだんでしょう。お宅の浅はかな子には育てられないと思いますんで、うちに置きます。それにもう名前もつけました」
そうして、ハムスター賠償金に、おじさんの健康を守るための空気清浄機代がドカンと上乗せされることになった。ぷるぷると震える母に、おじさんは透子さんの後ろに隠れながら、
「すまんな」
口の動きだけで告げた。優しいおじさんは、だいたいいつも、強い女に挟まれて、弱っていた。
わたしは月に一度、おじさん宅に通っては、巣箱やケージの丸洗いを手伝うことを透子さんから命じられた。
いつ行っても、透子さんは、たいがい機嫌が悪かった。
ある時は、さつまいもを潰しながら、
「作り置きできないの。傷みやすいから。毎日、毎日、買って、作って、丸めて……どんなに大変かわかる?」
わたしに聞いた。
「ひまわりの種やったら、友達からわけてもらえるかも」
「そんなので育てられるなら苦労しない。太ってきたから、ペレットに野菜を混ぜてやんないといけないんだから」
わたしは、この家でおやつに出されるブツ切りのさつまいもが、ハムスターの余りもんだったと知って、急激に食欲をなくした。ねっとり甘い鳴門金時は、ハムスターのエサには惜しい高級品じゃないか。
「こんなうまいもんタダで食えるんやったら、ハムスターも飼うてみるもんやな。ええ姪っ子を持ったおかげで、おれはラッキーやで」
おじさんは、こそっとわたしに言った。
おじさんは、リビングの窓際、ピアノのイスに座りながら、余りもんのさつまいもを平気で食べていた。
透子さんが嫁入り道具で持ってきたアップライトピアノ。そのイスが、リビングでハムスターから一番遠くて、風通しと居心地の良い場所で、おじさんの定位置だった。
「わたしはさつまいもなんて嫌いだから、何もラッキーじゃないわ」
透子さんは、忌々しそうにつぶやいた。
そして、
「こんなの、ちっともかわいくない」
ガリガリと金網を噛んで遊ぶハムスターを冷たく一瞥した。
やがて、驚くべきことが起きた。
ハムスターが死なないのだ。
本当に死なない。ぜんぜん死なない。
平均寿命といわれる2歳を迎えたときはなんとも思わなかったが、元気いっぱいのまま3歳を突破すると、逆に怖くなってきた。探偵ナイトスクープにいつ応募しようかと迷いつつ、結局、ハムスターは4歳まで生き延びた。
恐るべき大往生!訃報を聞いた時、悲しむよりも、先に拍手をしてしまった!
「墓、つくろか」
おじさんに誘われて、わたしたちは庭に集まった。前夜にNHKでやっていた旅番組が印象深かったので、ギザのピラミッド並に荘厳なハムスター墓を建設しようと、おじさんに打診した。
ピラミッド建設は、朝から始めて、昼すぎまでかかった。
「最後まで手がかかって仕方ない。もう二度と飼わないからね」
透子さんが忠告した。
一時が万事、透子さんはこの態度なのだ。
墓が完成しても、透子さんは手なんか合わせなかった。ツンとした顔して、台所でりんごをむいていた。
「こんなに買っても、死んじゃったら無駄になったじゃない」
たくさん、たくさん、むいていた。
「いっそアップルパイとかジャムにするのはどうやろか」
大量のりんごを一度に摂取させられたおじさんが、体中がりんご色になる前に、弱々しげな提案をした。
「面倒くさいこと言わないでよ!」
透子さんがピシャリと言う。そして、わたしをにらんだ。
「ほら、あんたも責任とって、持って帰んなさいよ。腐るほどあるんだから」
わたしに押しつけられた上等のりんごたちは、透子さんの手によって毎朝ていねいにすりおろし、ハムスターに与えられるはずだった。
清潔で広いケージ、散歩できるように注意深くケーブルが片づけられたリビング。こんなに手をかけられりゃ、長生きするわけだ。
透子さんが、台所に立ったまま、りんごをかじった。涼しい顔をして、次々にかじった。
「血も涙もない女や」と、わたしの母は、事あるごとに透子さんを軽蔑していたけれど、それはある意味で事実で、ある意味で誤解だった。わたしは、ハムスターのために不機嫌な顔でりんごをすりおろす、透子さんのそういうところを信用していた。
時が経ち、わたしは大学生になった。
もう学校帰りにおじさんの家へ行くことはなくなったけど、事あるごとに、ぬかりなく頼みごとはしていた。引っ越しの手伝いも、奨学金の連帯保証人も、おじさんは二つ返事で引き受けてくれた。
おじさんは、やさしい。
だから、おじさんは、ペルーへ行かなければならなかった。
「ぼくの会社でね、国際協力特派員ってのがあって……開発で地質調査がいる国に、そうやな、二年ぐらいやなあ、ずっと誘われてるんや」
正月の親戚の集まりで、おじさんが突然、打ち明けた。
「ちょっと待って。外国って、どこによ?」
わたしの母が目を剥いて、問い詰めた。
「去年はベトナムとインドネシアやったらしいわ」
「なんやあ、あったかそうやなあ」
「おじいちゃんは黙ってて!そんなとこで調査やなんて、なに考えてんの、危ないに決まってる。あんたみたいな丈夫やない子が、わざわざ行くとこやないわ」
母につられて、おばあちゃんも、大おばさんも、次々に火を切りはじめた。素直で誠実で身体の弱いおじさんのことが、みんな大好きで心配なのだ。
「そうや、そうや!」
「かわいそうに。会社から押しつけられたんちゃうの?」
「ユヅル、お前はなんでそんな大切なこと、早く言わんのや。そういうのは普通の会社なら独身に行かせるもんや。貧乏くじ押しつけられて、黙ってたらあかんぞ」
宴の最後の最後だったので、みんな酒が回って、好き勝手なことをおじさんにぶつけていた。おじさんはいつも最後まで発言権をもらえない。透子さんと結婚を望んだ時も、こんな感じだったらしい。
「わかった、行かへんよ。行かへんから」
おじさんは非難轟々の質問攻めにあい、観念した。……ように見えた。目だけが、うようよ泳いでいたのを、わたしは見逃さなかった。
透子さんとの結婚を勝手に決めた時も、こんな感じだったらしい。
春の訪れとともに、おじさんは勝手にペルーへ飛ぶことになった。やっぱりな!そうだと思った!アディオス!おじさん!
親族一同は阿鼻叫喚だったが、おじさんの単身赴任ではなく、透子さんもついていくということで、さらに大騒ぎになった。
おばあちゃんは一報を聞くなり、倒れて寝込んだらしい。
「信じられへん。ちょっとわたしがガツンと言うてきたる」
母は鼻息荒く、おじさんの家に押しかけた。呼ばれてもないのに行くなんて、そんな母は初めてだった。母はいつも、おじさんに会いたい時は、おじさんをうちへ呼び出すからだ。
母にとっておじさんの家は、憎き透子さんの結界が張られた敵陣なのだ。よもや、けが人が出るやもしれんと、わたしも付き添った。
間の悪いことにおじさんは出発の手続きに追われて留守で、対峙したのは透子さんだった。母はカエルのごとくひるんだ。しかしすぐさま、声を振り絞って、お節介焼きの火力を最大まで上げた。
「あなたたちね、ようわからん外国なんかでどないして暮らす気なん?」
「ユヅルの強い希望ですよ」
「勝手もわからんのに」
「スペイン語ならもう習ってきました」
「そうやなくて。ほら、その、頼れるアテもないやろ」
「はい?」
「授かりもんやねんから、いつどうなるか、わからんでしょ!安全な場所にいなさい!」
それが出産の話だとわかった時の透子さんの顔ったら、すごかった。顔だけであんなに不快感を表現できる人を、人生で初めて見た。絵画みたいだった。にらめっこ全国大会嫌悪部門があるならば、透子さんはブッチギリで優勝だ。
「子どもはいらないと、ふたりでとっくに決めました」
「な、なに言うてんの。ユヅルは、あたしらに一言も……」
「そんなことより、ハムスターのお墓の面倒を見てくださったほうが、よっぽど助かるのですが」
「ハムスターって……あなた……」
母は真っ赤な顔で震えるしかなかった。成すすべなく返り討ちにされただけでなく、ハムスターの墓守に成り果て、母は敗北した。
病床のおばあちゃんのもとへ逃げ帰った母は、びゃんびゃん泣きついた。
「ユヅルはあの女に背中を押されたんや。海外なら親戚づきあいも逃げられるし、駐在妻はええ暮らしができるっちゅうてな。車も服も何もかもブランドまみれ、便所のスリッパまでシャネルという噂やで」
憎しみに燃えた母による饒舌な密告に、
「まーっ、いやらしい!」
おばあちゃんは血圧を上げた。一体どこで仕入れてきたんだ、そんな眉唾もんの噂、とわたしは思った。
「ああ、ユヅルがかわいそう、かわいそうや」
「うちの息子が、あんな女からええようにされて」
「優しい子やから。なんも言えへんのやから」
女系の家族の中で、おじさんは、それはそれは、かわいがられていた。いや、かわいがられていたというか、かわいそがられていた。
母とおばあちゃんは、透子さんを悪とみなし、おじさんの離婚を切に願う同盟を結ぶこととなった。
「なんてかわいそうなユヅル」
同盟の口ぐせだ。ふたりの愛は、おじさんのすべてをまとめて、かわいそう、という真綿でくるんで勝手に温める形をしていた。
離婚の願いは、最後まで、届かなかった。
半年も経たずして、おじさんがペルーで亡くなったからだ。
山間部で下水処理装置の工事に立ち会っている最中、地下でパイプが破裂して、地すべりに飲まれた。数十人が行方不明、ふもとの村まで半壊する被害となった。
透子さんだけは、都会へ買い物に出かけていて助かった。
おじさんの会社から一報を受け、あわてふためく母が、着の身着のままで家を飛び出そうとした。羽田空港に向かうタクシーの中で、うちの家族は誰もパスポートなど持ってないことに気づくほど、混乱していた。
透子さんだけが、冷静だった。
「地形が険しい上に土砂がひどくて、捜索隊以外は近づけません。ペルーにはいらっしゃらないようにしてください」
国際電話の向こうで、透子さんが言った。
「で、で、でも、緊急発給、パスポート、してくれるって」
「来られる方が迷惑です。主人の捜索は、わたしが責任を持ちます」
地球の裏側からまっすぐ突き刺してくるような、何かを決意したような、太い芯の通った声だった。
母は通話の切れた電話をしばらく見つめて、両手で握りしめていた。まだ現実感を持てないわたしは、透子さんみたいな声なんか出なくて、母の背中をさすることしかできなかった。
一週間後、透子さんは帰国した。
責任を持つという言葉の通り、小さな骨箱をひとつ、しっかりと腕に抱えて帰ってきた。
おじさんの遺体は、現地で荼毘に伏されたそうだ。真夏のことだった。
葬儀は、かわいそう、かわいそう、とすすり泣く声が、最後まで絶えることがなかった。
わたしは身内が亡くなるということすら初めてで、ずっと信じられない気持ちで、言われるがままに参列した。
透子さんは、立派に喪主をつとめた。
弔問客が帰り、わたしたちも引き上げることになった時、おばあちゃんがよろめきながら、骨箱に手を伸ばした。
「ユヅル、ユヅル……つらかったろ、くやしかったろ……」
おばあちゃんの青白い手が、骨壺の白い風呂敷をといていく。
「やめて!」
透子さんが、大きな声を出した。おばあちゃんが後ろにひっくり返りそうになり、透子さんはハッと我に返ったように、腕を掴んで支える。
「ペルーの火葬場は日本よりも火力が強くて、お骨がひとつも残らず、灰になったんです」
「ああ……ああ……」
「箱の中で灰が舞ってしまったら大変ですから、触らないでください」
透子さんの淡々とした説明を聞き、おばあちゃんは泣き崩れた。騒ぎを聞きつけた母は、透子さんの腕から引き剥がして、おばあちゃんを抱きしめた。
行き場のなくなった透子さんの手は、風呂敷に向かう。骨壺をていねいに包みなおして、抱え上げると、透子さんはおじさんと一緒に家へ帰っていった。
わたしが親族代表の“スパイ”になれと命じられたのは、おじさんの七回忌が近づく、初夏のことだった。
「あの女はきっと一生、入れへんつもりや!」
葬儀以降、すっかり弱って、歩くこともままらならなくなってしまったおばあちゃんの介護から帰ってきた母は、えらく立腹していた。
透子さんの話だということは一瞬でわかった。
「入れへんって、なにが?」
「お墓や、お墓!」
「ユヅルおじさんの?」
「どんなに遅くても、三回忌までに納骨するもんや。常識や。いや、常識どうこうの前にユヅルが不憫やわ」
「おじさんは、置かれたとこで健気に咲くタイプやと思うけどな」
「アホなこと言わんといて!このまま、おばあちゃんが先にお墓に入る羽目にでもなってみいな。先祖代々のお墓にユヅルがおらんねんで、そんなん、許せるわけないでしょう……」
思い詰めた母が、蚊の鳴くような声で嘆いた。
「あの優しい子に、そんな親不孝させたらあかん」
もっとも不憫らしいことを言っているが、なかなか、恐ろしい決めつけにまみれていると思った。おじさんの意志はどこにもない。
「で、透子さんはなんて?」
「まだ家に居てもらいたいって、そればっかりや。まったく、何様のつもりやろか」
嫁様と姉様では一体どちらがえらいのか、わたしにはわからない。母は慌ただしく台所とリビングを行ったり来たりして、ふと、カレンダーの前で立ち止まった。
「七回忌の法事の日ィ、あんただけ残って、片づけ手伝ってきなさいよ」
「えっ」
「ほんであの女が企んでること、聞き出して、説得してきて!」
母の眼が、ぎらりと光った。わたしは嫌な予感しかしなかった。
「説得なんか無理やって。あの透子さんやで?」
「なんやかんやで、あんたが一番しゃべってたやないの」
「もう何年も連絡してへん」
「うちの家が嫌いなだけで納骨せんつもりなんか、それだけでも知れたらええわ。ほんなら、こっちも遠慮することなくなるし」
「知ってどうすんの?」
「ユヅルを取り返さなあかん」
ど、ど、ど、泥棒っ!?
仁義なき骨肉の争いならぬ骨箱の争いを想像してドン引きしたが、実際には分骨といって、家族でお骨をわけてもらう方法があるそうだ。そうと聞けば、わりと穏便な解決策に思えた。
あの透子さんのところへ単身乗り込むのを想像すると身震いしたが、
「おばあちゃんが満期の生命保険で、車買うたるって」
わたしは揺れた。就職と同時に買った中古のミラジーノは、すでに満身創痍だった。会社でも笑われていた。母のとっておきの隠し玉に釣られて、わたしは任務に就くこととなった。
言い訳になるが、引き受けた理由は新車だけじゃない。あんまり好き勝手にいう母にも、わたしは腹が立っていた。透子さんの痛快で完ぺきな拒絶を、わたしは久しぶりに、拝んでみたいような気もしていた。
そして、ユヅルおじさんの七回忌の法事が始まった。
透子さんだけで住み続けるには広すぎる家に、親族が集まってくる。住職が来るまで、それぞれお茶やお菓子をつまみながら話していた。
喪失の悲しみは消えないけど、集まりの雰囲気が、法事の回を重ねるごとに少しずつ変わっていることに気がついた。
「ユヅル、見とるかあ。じいちゃんもばあちゃんも、元気にやっとるで」
「ユヅルの好きな芋ようかん、作ってきたったでえ」
おじさんの写真と骨壺が置かれている小さな仏壇を見ながら、つぶやくように話す内容に、どこか安堵が滲んでいる。
一回忌や三回忌は、こんなものではなかった。あちこちで泣き叫び、押し黙り、情緒が狂っていたのが懐かしい。
「お寿司も届いたでえ。なんや、今年は早いな」
「ああ、客間に置いとこか」
出前の寿司桶の数だって、びみょうに増えている。最初はだれも手をつけずにカピカピに乾いていったお寿司だったが、昨年ぐらいか、完食しはじめている。悲しみと食欲は反比例するのだ。
遅れて到着した大おばさんと大おじさんが、汗を吸った喪服の上着を脱ぎながら、手であおいでいる。
「やあ、今年もみんな元気で集まれてよかったねえ」
「ほんまや、ほんま」
「ユヅルも家に帰ってこれただけ、幸せやったんかもしれへんな」
「そうやなあ……ペルーでも、まだ見つかってない人が大半らしいし……」
「気の毒なこっちゃ。出てきてくれただけ、ユヅルは親孝行もんやな」
「わたしのリウマチがようなったんも、天国のユヅルのおかげやと思うねん。あの子は、やさしい子やから」
すごい勢いで減っていく麦茶をつくりなおすフリをしながら、わたしは黙って、みんなの話を聞いていた。いつの間にかおじさんは、道半ばでありながらもそこそこ幸せな生涯を遂げた人になっていた。そういうことになっていた。
母が目をうるませながら、ひときわ大きな声で言う。
「うちの娘がハムスターほしいって言うたら、かわりに飼って、ごっつ長生きまでさせてくれて。ユヅルは、ほんまにやさしい子やった」
それも、そういうことになっていた。
台所の準備をしている透子さんが、この会話に参加していなくてよかった。
つまりこれは、エピローグなのだ。
悲しみが昇華し、納得に収束しようとしている。
母の言うように、納骨の話をまとめるなら、今日ほどふさわしい日はない。わたしですらそう思ったから、みんな思っていたはずだ。
さすがに透子さんが、納骨について、切り出すだろうと。
しかし、透子さんは、なにも言わなかった。涼しい顔をして、会話にも参加せず、淡々と準備をしていた。
しばらくして、ワッと、客間がわいた。
つけっぱなしのテレビの画面に、夏の高校野球の試合が映し出されていた。二回戦だったが、怪物と呼ばれて注目されてる一年生スラッガーの打順が回ってきた。噂好きのおばあちゃんやおじいちゃんたちは一斉に、テレビに釘付けとなった。この気まずい沈黙から逃げたかったのかもしれない。
他のみんながテレビを見ている間、わたしは、おじさんの仏壇を見た。気になっていることがあった。骨箱がすこし正面から右に傾いていた。
仏壇は法事の時だけ、大がかりな祭壇をつくって拡張しているから、きっと置く時にずれてしまったんだろう。勝手に戻していいのか悩みながら、手を伸ばした。
いざとなればこの箱を持って逃げ帰れば、新車がもらえるのか。一瞬、魔が差しそうになったが、さすがにそれは、おじさんに悪すぎる。わたしはそっと、位置をなおすためだけに、骨箱を持ち上げた。
あまりにも軽くて、おどろいた。
ひと一人分の骨というのは、こんなにも軽いのか。
急におじさんの喪失が身に沁みて、悲しくなったが、違和感があった。軽すぎる。たしか骨箱の中には、骨壺も入ってるんじゃなかったのか。せいぜい箱の重さぐらいで、とても陶器の重さは感じられない。
……まさか、からっぽ?
「そんなわけない」と「こんなはずない」が、高速で頭の中を打つ。心臓が早鳴る。
からっぽだとしたら、いつからだ?
おじさんの骨は、どこにあるんだ?
あの日、この骨箱を大切に抱えて帰ってきた透子さんの、伏せがちな目を思い出す。後にも先にも、抱えることを許されたのは透子さんだけだった。
「ちょっと」
後ろで声がした。ヒュッと息が裏返る。
「芋ようかん切ったから、ユヅルにもお供えしてあげて」
母だった。
わたしは芋ようかんの乗った小皿を受け取ったまま、しばらく、仏壇の前に立ち尽くしていた。客間からは歓声が聞こえる。アナウンサーが、スラッガーの打球のゆくえを叫んでいた。
まもなく住職が到着して、法事が始まった。
お念仏が響くなか、親族はそれぞれ、正座した膝に視線を落としたり、数珠を持った手を組み直したりしているが、全員に共通していることがある。身体は前を向いている。当然だ。そこにおじさんの写真と骨箱があるからだ。
そこにおじさんの魂があると信じてるから、思い思いにふけりながら、静かに弔っている。何年もずっと、わたしたちはそうだった。
透子さんはいつも、親族の一番後ろに座っている。最後にお布施やお茶菓子を出す喪主としては、なにも不自然じゃない。だから誰も、読経中の透子さんの姿なんて、気にも留めなかった。
わたしだけが、こっそり、振り返った。
一直線に美しく揃えられた、黒いボブカットの毛先が、透子さんの横顔で揺れていた。クーラーで冷えすぎないよう、すこし開けた窓の向こうから、静かな風が吹きこんでいる。
透子さんは、おじさんを見ていなかった。手を合わせながら、窓のほうをぼうっと見ていた。視線の先にはハムスターのお墓があった。おじさんが座っていたアップライトピアノもあった。
透子さんだけが、おじさんの仏壇を見ていなくて、おじさんがいつもいたはずの場所を見ていた。
急に胸が苦しくなった。
透子さんが、わたしに気づく。うつむく親族たちの中で、わたしたちだけが、視線を合わせている。透子さんの目はわずかに動揺し、固く結んでいた唇をほんの少し開いた。そう見えた。かすかに焼香の匂いがした。
法事が終わり、ほかの親族は後ろ髪を引かれるように帰っていった。母との約束どおり、わたしだけが残って、後片付けを手伝いたいと申し出た。
透子さんは歓迎もしなかったが、断りもしなかった。透子さんが洗い物を片づけている間、わたしは居間を片づけた。机を拭きながら、おじさんの骨箱のことばかり考えていた。
「ねえ」
振り向くと、透子さんが立っていた。
濡れた手で、ナイフを持っていた。
「メロンが傷みかけてるから、あんたも手伝って」
一瞬、殺されるのを覚悟したわたしは、全身から力が抜けた。そんなわたしを見て、透子さんは笑った。
後をついて、台所に行く。シンクの上に、大きなメロンの他には、ぶどうやりんごなどもゴロゴロ置いてあった。
「他のは食べなくていいの?」
「お供えものとして売ってる果物って、食べられないのよ。おいしくないの。わざわざそんなの買うなんて、ばからしいよね」
大叔母たちが持ってきた果物を、透子さんはゴミ箱に放り込んでしまう。ハムスターが食べ残した餌すら、責任を持って、食べきっていた透子さんを思い出す。
「ばからしいことを何年も続けてるのはお前だろって、思った?」
黙っているわたしに、透子さんが言った。
「ううん」
透子さんはもう、おじさんの骨がここにないって真実を、隠す気はないようだった。透子さんは昔のことを、静かにしゃべり始めた。
「事故の現場に着いた時に思ったの。ああ、これはもう駄目だなって。村ひとつ飲み込んじゃうほどの地すべりで、ユヅルが仕事をしていた場所は、特にひどかった。小屋とか重機とか、ぜんぶ押し流して、土砂で大きな山ができてた。目撃した村の人が言ってたわ。なにもかも一瞬だったって」
透子さんは、まな板の上にメロンを置いた。
「捜索が打ち切られたあとも、村の人は捜すの。こう、木の棒を泥に突き立てて……」
透子さんのナイフがメロンに触れた。連日の猛暑で熟したメロンの切り口からは、果汁が流れた。
「棒の先からは、だいたい、濁った地下水が吹き上げるだけ。何かに当たって、腕や足だけでも見つかれば、とても幸運なほうね。それでも、誰のかなんてわからないんだから。腕が出ても、足が出ても、ずうっと探し続けるしかないの。終われないの。家族が見つからないっていうのは、そういうことなの」
タン、タン、と音を立てて、透子さんがメロンを等分に切っていく。
「お義姉さんやお義母さんには心配かけたくないっていうのが、ユヅルの口ぐせだった」
「わたしの前でも、おじさん、よく言ってたよ」
「自分で決めたどんなことも、かわいそう、かわいそうって、うるさく心配されたら、そりゃあ、嫌になっちゃうよね」
「うん」
「だから、箱をひとつ買って、ここにいるということにしたの。もうだれもユヅルを探さなくていいように、わたしが決めたの」
つぶやくように、透子さんが言った。
おじさんの遺体は、あの日、見つからなかったのだ。透子さんは、それを隠していた。だからわたしたちをペルーに向かわせなかった。
暗い土砂の下でまだ眠っているおじさんも、どこかに流れ着いて生きているおじさんも、初めて想像してみた。想像してたちまち、そんなことは悲しすぎて、苦しすぎて、立っていられなくなりそうだった。
わたしでさえ、こうなのだ。遠い異国でおじさんを探し続けることに、母やおばあちゃんが、耐えられただろうか。七回忌を迎えてあんな風に、心穏やかに笑っていられただろうか。
この苦しさを何年も何年も、透子さんだけが、抱えていたのだ。責任を果たしていたのだ。
眠ってるということにしましょう。
幸せだったということにしましょう。
透子さんは、約束をしたのだ。穏やかな日々が訪れるように。
「なんでわたしに教えてくれたの?」
わたしが聞くと、透子さんはすこし黙った。どこか疲れていて、我に返ったような、ほんの少し後悔しているような、そんな顔をしていた。
「あんただけは、ユヅルのことを、かわいそうって言わなかったから」
わたしはこの後、目を光らせて、骨箱奪還の結果を聞いてくるであろう母に、なにを話すべきか迷った。透子さんの孤独を打ち明けたい気持ちと、透子さんの約束を守りたい気持ちの間で、ずっと揺れていた。
透子さんは、口止めもしなかった。
帰り際に使い切りのプラスチック容器にいっぱい入ったメロンを持たせてくれた。ちゃんと、母とおばあちゃんの分もあった。透子さんがそんなことをしてくれたのは初めてだった。わたしとは、もう会わないつもりかもしれないと思った。
ずっしりと重たいそれを大切に抱えて、わたしは、家までの道を歩いた。