冬がはじまるよ〜のぞみ64号東京行き4号車で、槇原敬之が聴こえたら〜
疲れていた。
泥のように疲れていた。
締め切りが迫った原稿を、ギリギリまで書き終え、気づけば朝すらも通り過ぎ、昼になっていた。
その足で用意をし、広島県福山市の講演会で2時間喋り倒した、帰りだった。
東京行き最終の新幹線・のぞみ64号の4号車に、走ってなんとか飛び乗る。
乗客は私と同じように皆、長い一日の終わりに放心しているようで、静かだった。
いつの間にか眠ってしまった私は、車内チャイムの音で目を覚ます。
聞き逃した次の停車駅を確認するために視線を上げると、車内の電光掲示板では「次は新大阪」と光っていた。
まだ新大阪か。
もう一眠りしようと思ったが、なんとなく電光掲示板を眺めていた。
やがて表示はニュースにかわり
「歌手・槇原敬之容疑者を逮捕 覚醒剤取締法違反の疑い」
と表示されていた。
ああ残念な話だな、と思った。
様子がおかしいことに気がついたのは、名古屋を過ぎて、しばらく経った頃だった。
槇原敬之の、歌が聴こえる。
柔らかで、温かく、目の前の人に語りかけるような歌声を、これまで何度も耳にしてきた。
その槇原敬之の歌が、のぞみ64号の4号車で、聴こえるのだ。
最初は、だれかのイヤフォンの音漏れかと思った。
でも、違う。
音漏れではない。音漏れにしては爆音がすぎる。
これは完全に、誰かに聴かせるレベルの音量だ。
私は戸惑いながら、あたりを見回した。
4号車にはいまだ、疲労が充満していて、とても静かだった。
槇原敬之の歌以外は。
なんで、誰もなにも、反応しないんだ。
マイケル・ジャクソンが亡くなった時、欧米の地下鉄でマイケルの歌を乗客が流し、みんなが歌い出したという話を聞いたことがある。
でも、槇原敬之が逮捕されて、みんなが歌い出すなんてことがあるのだろうか。
私は先日、スカイマークの飛行機に乗ったことを思い出した。
あの飛行機は、日本ハムファイターズの特装機で、ずっと応援歌「ファイターズ讃歌」が流れていた。
もしかして、のぞみ64号は、槇原敬之特装車だったのか。
そんなことまで考え終わってもなお、槇原敬之は歌い続けている。
あまりにも乗客が動じないので、私は、戸惑いながらツイッターに投稿した。
それから、すぐのことだった。
相互フォローをしている、岡田悠さんからリプライがあった。
私は「またまたあ」と思った。
岡田悠さんと言えば、おもしろい記事をたくさん書くことで有名な人だ。きっとノリで言ってきたんだろうと思い、私は岡田悠さんのTwitterトップページを開いた。
君の名は。
マジか。マジの岡田さんの同僚か。
いつのまにか槇原敬之の歌は聞こえなくなっていた。マジか。
ちなみに岡田さんのTwitterの画面ではこうなってたらしい。
投稿時間のラグ、わずか1分。
岡田さんはどれだけ目を疑ったことだろう。
品川駅で降り、高輪口に向かおうとする私は、ふと足を止めた。
振り返ってみる。
槇原敬之の歌を流していた彼の見た目は、わからなかった。
でも、港南口に向かおうとする、白いアディダスを履いた男性が、足を止めて、こちらを振り向いていた。
「まさか、ね」
そう思って、私は踵を返した。彼も、すぐに前へ向き直った。
槇原敬之の『冬がはじまるよ』のサビを思い出しながら、私は、二度と会えないであろう彼との邂逅を、すこし嬉しく思った。
このあと普通に連絡がついて、来週、3人で会うことになった。