飽きっぽいから、愛っぽい|書く、出会いなおす@福岡県糸島市

 

キナリ☆マガジン購読者限定で、「小説現代11月号」に掲載している連載エッセイ全文をnoteでも公開します。

表紙イラストは中村隆さんの書き下ろしです。

実家に帰ると、母は朝食を作ってくれた。

お手製のホットドッグは、ウインナーの下にパリッとしたレタスが敷かれている。一人暮らしのわたしにはない発想だ。レタスは値段が高いのにでかくて使いきれないから買わないし、買っても挟むのが面倒だからそのままバリッとむしって、動物園のふれあいコーナーにいるウサギみたいにむさぼる

ホットドッグの載った皿にはもうひとつ、オカンの気づかい的ベジタブルが添えられている。鮮やかな赤色のプチトマト。

わたしがホットドッグの端から端まで飲むようにして食べても、一向にプチトマトへ手をつけないのを見かねて、母は言った。

「食べへんの?」

大好物を最後までとっておくような理性的行動を取れない娘であることを、生みの親は熟知していた。

「嫌いやねん」

「なんでよ。これめっちゃ甘いねんで」

「とうもろこしとかかぼちゃが甘いのはええねんけど、ブチュッとした汁っぽい野菜が甘いっていうのが、なんか気持ち悪い」

母は驚きと悲しみの入り混じった顔をした。

「三歳くらいまではトマトといえば奈美ちゃん、奈美ちゃんといえばトマトやったのに……。丸ごと角切りにしたやつをキャッキャ、キャッキャ言いながら食べてくれたのに」

人生の随所で感じたことのある気まずさがわたしを襲う。

これはあれだ。恩情の温度差だ。

親戚が集まる法事で「あの奈美ちゃんがこんなに大きくなるなんて。赤ちゃんのときはおばちゃんがオシメ替えてあげてんよォ」と言われたときのアレだ。そんなことをしみじみ言われても、覚えとらんのだ。その恩は覚えとらんのが、赤ちゃんなのだ。生き写しの他人と見間違えられてるみたいだ。

過去の自分と、現在の自分は、もちろん連続して存在している。修学旅行で北海道の農場を訪れたとき、空から現れたUFOに連れ去られ、宇宙人が侵略の布石としてすり替わったという可能性もあるっちゃあるけど、作風が変わってしまうので、ここでは一旦その可能性は捨て置く。

一分前のわたしと、今のわたしは、同じわたし。でも生きていれば、記憶やポリシーは変化する。ゆっくりでもあるし、急激にでもあるけど、十年前のわたしと、今のわたしが同じだとは、わたしだからこそ断言できない。

トマトをキャッキャ、キャッキャ言いながら食べていたわたしは、ここにいない。思い出せない。心当たりがない。


エッセイを書き始めたころ、ある作家さんに悩みを打ち明けた。

わたしは記憶力がいい方じゃない。誰かと過去に交わした一言は鮮明に覚えているけれど、その前後の会話はあやふや。そんなことが頻繁にある。

だからエッセイとして書くときは、あやふやな部分の辻褄をあわせるため、抜けたジグソーパズルのピースを3Dプリンタで出力するように、一から作ってしまうことがある。そうしなければ、他人に思い出を語れないからだ

それは噓つきではないか。偽りの記憶で、大切な思い出を汚しているのではないか。

彼は両手を組みながら、静かに答えてくれた。

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