【キナリ★マガジン更新】さみしさはまぶしい(姉のはなむけ日記)
Photo by junnakamura
グループホーム入居を目指し、ダバダバと奮闘する姉と弟の記録。前回のお話はこちら。
始まりのお話はこちら。
母とわたしと弟と、そろって晩ごはんを食べた。
そのあと弟は、お風呂に入った。シャワーの音に負けないぐらい盛大な鼻歌を聞きながら、わたしは寝室でパソコンに向かっていた。
「奈美ちゃん」と、母がリビングから小さな声で呼ぶ。行ってみると、ソファの前に、弟の青いボストンバッグがあった。中身がちゃんと詰まっている。
車いすに座る母の膝の上には、母が選び、ていねいにたたんだばかりの弟の服が、行き場を失って積み重なっていた。
「自分で準備してたんやわ」
行き場を失った服の山を、ぽん、ぽん、と母の骨ばった細い手指が叩く。
「どんどん手がかからなくなっていくんやね、良太は」
褒めている素振りなのに、母はとにかく、泣きそうになっていた。
ボストンバッグには、グループホームで着るTシャツとハーフパンツが入っていた。弟が好きに選んだので、配色はアレだけど。これをこのまま着たら、アフリカ各国の国旗が歩いてるような具合だけど。
わたしは、黙って母を見ていた。泣くこともなかった。むしろ戸惑っていた。
なぜなら。
もっとずっと前から弟は手がかからないことを、わたしは知っていたからだ。
ひと月かふた月に一度、わたしが住んでいる京都に、弟は泊まりにくる。
ジャーナルスタンダードファーニチャーで手に入れた、我が家のお気に入りのダイニングテーブルは、幅が140cmもあるのに、そこで食事をすることすらままならない。ノートや本やタオルや色ペンや梨が常に散乱しているからだ。雪崩が起こってから片づけても、翌日には散乱している。なぜなのだ。小人でもいるのか。
弟が泊まると、ダイニングテーブルは様変わりする。きっちり半分だけ、二人分の朝食の皿が乗るように片づいてる。もう半分には、縦と横の線をピッタリそろえて、ノートや本やタオルや色ペンや梨が、式典のように整列させられていた。
帰るときも、弟は自分でドラム式洗濯機の中から自分の洗濯物を引っ張り出し、たたんで、持ち帰る。いちいちたたんだりせず、その日着るものを洗濯機から引っ張り出して適当に着て過ごすわたしは、はなから彼に信用されてない。
これまで母といるとき、弟が自分で着替えを詰めなかったのは、母への甘えだと言ってしまえばそれまでだけど。
あえて“できないを装う”という種類の優しさも、ひょっとしたら、あるのかもしれない。手を差し伸べるだけの余白を自分に残して。
そしてその余白は、少しずつ、少しずつ、さざ波に押されるように、時間をかけて埋まっていく。もう手を差し伸べなくてもいいんだよ、ありがとうね、と語りかけるように。
今日まで母はどんな気持ちで、弟の着替えを詰めていたんだろう。言いきれない気持ちを、たたんで、たたんで、ゆっくり差し出していく時間。弟はそれを受け取ったのだ。
弟をグループホームへと送っていく車のなかは、静かだった。
弟は後部座席で、ドアの内側に頬杖をつきながら、流れる景色をじっと眺めている。
「さみしいんやろか」「イヤやって泣かれたらどうしよう」と、ハンドルを握りながら母は気が気じゃないようだ。どうしようって言うたかて、あんたの方が泣きそうである。
助手席から弟をしばらく観察した。
弟は窓の外になにを見るでもなく、ぼうっと感傷にふけっている。これにはわたしの胸も締めつけられたが、どうやら様子が変だ。
たまに弟の首が、なにかを追うように、ぐいーんと動く。そしてまた、視線は斜め前の定位置に戻る。
窓の外には、マクドナルドがあった。
そして次は、餃子の王将。
車が王将を追い越すのに合わせて、弟の首がぐいーんと動く。視線が王将を補足している。あっ、ラーメンも。ファミレスも。マックスバリューはどうだろうと思ったが、スーパーには興味がないようで、微動だにしなかった。
「いつもどおりやわ、あれは」
スターバックスコーヒーでまた首がぐいーんと動いたので、ドライブスルーで寄っていくことになった。
いつも実家で腹を出して寝たり、おもむろに踊りだしたりする弟が、グループホームへ行ってしまう日を、想像するのが怖かった。
弟が困ったように笑う顔とか、嫌だと泣く顔とか、なんでやねんと怒る顔とか、そういうのが頭のなかに生まれては張りつくたび、罪悪感でウップとこみ上げそうだった。
でも、怯えていた過去のわたしに、今は伝えてあげたい。
・「姉のはなむけ日記」の後半は、キナリ★マガジン(月額1,000円)の購読者さんのみが読めます。
・購読料はすべて弟が入居予定のグループホームに寄付するお金(送迎車の購入費、支援員の人件費など500万円程度)に充てます。
・連載期間中、一度でも購読すると、数ヶ月後に同人誌が無料で届きます。記事最下部のフォームからお申し込みください。
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