【キナリ★マガジン更新】スリへの気まずさ in パリ
パリに行くと決まってから、実は、怯えていた。
スリが怖い。
パリと言えばスリ、スリと言えばパリである。
つい最近、フランスに転勤した知人が、げっそりした顔で語ってくれたのも、記憶に新しい。
「一年いただけなのに、15回もスリにあいました……」
あいすぎだろ!
スリのバーゲンセールかよ!
わたしが前に勤めていた会社の上司も、パリでスられていた。
彼は車いすに乗っているのだが、エッフェル塔を見上げていたら、誰かからケチャップをぶっかけられたという。
たまたま近くにいた男から、
「わあ、大変だ!このタオルを使いなよ!」
親切に声をかけてもらえたかと思いきや、車いすの下カゴの中から、カバンとノートPCを、奪われたらしい。
車いす相手にも、容赦なし。
スリとは無縁な、ぬるい人生を送ってきた岸田家は、震えあがった。
今回の旅で、弟が留守番なのも、これが理由だ。
弟は、買い物に付き合うのが大キライで、わたしと母がパリの店でワーキャーしている間も、かたくなに外で待つであろう。
待っとる間に、身ぐるみ、はがされる。
こわすぎる。
出発前のカバン選びからして、われわれは血眼だった。
「腹巻きにお金入れとくのが、ええらしいで」
「よっしゃ。腹巻きにポッケを縫いつけとこ」
「あとはリュックと……」
「リュックはあかん!見えるとこで抱えとかな!」
「あっ!ユニクロの斜めがけバッグがスリ対策にええぞって、Xでバズっとる!」
「なんやてえ!」
ユニクロに駆け込んだ。バズったので、売り切れてた。車で三軒まわって、ようやく、一個だけ手に入れた。すでに薄汚れてる白色を。
「これで安心や」
「もう一度X見たら、この素材は切り裂かれるから、意味ないって!」
「なんやてえ!」
情報にふり回されている。ただクローゼットに薄汚れているカバンが増えただけだった。
そんなとき、飛び込んできたニュースが、これ。
ジーコが、パリのタクシー乗り場で、一億円のスリにあう。
一億円のスリにあう!?!?!?!?!??!?!?
スる方も、スられる方も、ワールドワイド級の才能である。世界スリ選手権大会(ワールド・スリ・クラシック)があったら、ぶっちぎりで優勝確実だ。桃鉄におったなあ、そんなやつ。
こんな、競合ひしめく世界大会の舞台に、わたしたちが……?
出発前から疲労困憊。
同行してくれる『newsおかえり』の撮影ディレクターに打ち明けると、
「おもしろいことが起こりそうですねえ!」
フラグを立てるんじゃないよ。
死守です、死守。
冗談ではなく、ろくに眠れないので、ベッドの中で永遠にスリ対策を調べる夜が続いた。
「パリでニコニコしながら話しかけてくる人がいたら、注意してください。その間に荷物の中を探られてますからね」
この旅では、だれも信用してはならぬ。
毎晩、母と話し合って、
スリ対策の最終形態も発明したが、パンツを丸出しにせねば、サイフすら取り出せない構造に頭を抱えた。なにも失わない代わりに、失うものが多すぎる。
9月5日、夕方。
パリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立った。
オレンジ色のベストを着た、職員のおじさんが、母の車いすを押してくれた。
世間話らしきことを、軽やかに話してくれるのだが、なんせフランス語で聞き取れない。
親切だなあ、と浮き足が立つ一方で、
何びとたりとも、信用するなかれと思い出す。見よ、この母の顔を。おじさんの世間話どころではない。
カバンをギュッと抱える母を、おじさんがのぞき込む。
な、なんか言ってる。母の腕がカッチカチに固まる。もはやラグビー選手のそれである。
「おなか、いたい?」
おじさん、お腹を心配してくれていた。
スリを警戒してるんですとは言えない。
大丈夫です、と情けなく答えた。
そうこうしている内に、急におじさんが増えた。あまりに自然と横から合流してきたので、なんか、ドラマのエンディングみたいだった。
そして、元々のおじさんは、スッとフェードアウトした。
おじさんから、おじさんへ、バトンタッチ。
うちらは今、養子に出されるカモってやつかもしれない。油断してはならない。
しばらく到着ロビーに放置され、うろたえていると、
「おーい!きみたちが予約したタクシー、探してきたよ!」
おじさんが、息を切らせて、戻ってきた。純度100%の親切な人であった。お腹ではなく、心が痛い。
メルシー。
パリに着いて、すぐ向かったのは、
エッフェル塔。
ベタベタすぎるやないかと、あなどるなかれ。見てよかった。本当によかった。なんなんだ、この美しさは。
デカくて高いものを見て、感動したのは、初めてだった。
真下から見ても、鉄鋼の繊細さに、ため息が出る。もちろん、ため息ついてる間も、警戒は怠らない。
ケチャップついたら、すぐティッシュ!
ケチャップついたら、すぐティッシュ!
今夜は、エッフェル塔の展望台にある『マダム・ブラッスリー』で、ちょっとお高い食事を予約している。うれしい。
通天閣の上で食べるのと同じだと思うと、なんかダサいけど、いいのだ。おのぼりさんになるのだ。
エッフェル塔の真下にある受付でお金を払い、名前入りのチケットを受け取った。塔をのぼったあと、これをレストランで出すらしい。
エレベーター、どこやろか。
ウロウロしていると、男の人がきて、
「マダム・ブラッスリー?」
と聞いてきた。
「イエス!あっ、ちゃうわ。ウイ!ウイ!」
すると彼は、なにも言わずに、わたしからチケットを預かって、どこかへ行ってしまった。
「……え?」
一瞬で、頭の中で、最悪の想像が駆け巡る。
わたしと母が、これから塔をのぼって、レストランへ着く。店員さんから「チケットは?」と聞かれる。答えられなくてパニックになっていると、店の奥で、紙エプロンをつけた男が、ワイングラスをこちらに向けている。さっきの男だ。
「ウーイ!お酒がオイシイデース!」
わたしは、男を指さして、金切り声を上げる。
「あいつです!あいつが、わたしのチケットを持って行ったんです!」
ハア?と呆れる店員。むりやり入店しようとして、屈強な男たちから羽交い締めにされるわたし。
運ばれてきたコース料理に舌鼓を打ちながら、彼は笑う。
「ワタシがキシダナミデース!お肉がオイシイデース!」
違うんです。わたしです。わたしが岸田奈美なんです。あの酒も、あの肉
も、わたしのものなんです。信じてください。
想像の中で、号泣した。
許すまじ!許すまじ!
全速力で、走って、追いかけた。
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