【キナリ★マガジン更新】母ひとり黒豆を煮て夜を越す
二年ほど前から、母は煮てる。
なにかを、必死で、とにかく煮てる。
ガスコンロの前を陣取り、
車いすのタイヤをガツガツぶつけながら、
汗だくでひたすら鍋をかき回している。
近いうち、ねるねるねるねの魔女として、スカウトされるかと思われる。
煮ている“らしい”という風評なのは、
わたしは実家を離れて暮らしているので。
わたしだけではない。
弟も、ばあちゃんも。
知的障害や認知症のグループホームで暮らしている。
岸田家は三年前に、一家離散した。
ただの一家離散ではない!
各自の病気やら障害やらが重くなって、
家族だけで抱え込めないどころか、
ボケ散らかしたばあちゃんとの抗争が勃発した時、
「自立とは、家族だけで暮らすことやない!
それぞれが頼れる先を探し、増やすことや!
戦略的一家離散や!ファイアー!」
という号令を発令し、泣きながら家族で散った。
どうなることかと思ったが、岸田家はこういう時に幸運が炸裂するので、どうにか無事に、心地よく暮らしている。
平日は各自、仕事なり訓練なりをがんばって、週末は実家へ集結する。
アベンジャーズ。
さて。
そんなアベンジャーズの母担当の母。
最近、様子がおかしい。
平日の深夜、とつぜん、母が鍋の写真が送ってくるのだが。
ちょっと見て。
この世の終わりかと思うほど、真っ黒の鍋ッッッ!
「黒豆、煮てるねん」
そうか。
人生には黒豆を煮る時もあるよな。
深く考えず、適当に返事をした。
三日後。
また鍋の写真が送られてきた。
「黒豆、煮てるねん」
わたしはゾッと戦慄した。
母が壊れたのかと思った。
「えっ、また?」
「前のが水っぽくて、炊きなおしてみた」
「ふうん……」
週末に実家へ帰ると、食卓に黒豆が出てきた。
まあ、ふつうの黒豆の味だったが、母は納得のいかなさそうな顔で噛みしめている。
次の週も、その次の週も。
母は黒豆を煮ていた。煮続けていた。
実はわたし、胸がつぶれそうになってた。
わたしにはおかげさまで、仕事と趣味がたくさんある。
弟も仲間とグループホームとはじめて暮らして、ゲームにキャッチボールにと忙しい。ばあちゃんは、まあ、なんか、トリップしてるし。
母だけ、これといって趣味がない。
わたしが専業主婦だった母を、ひとりにしてしまった。
黒豆を煮るぐらいしか、母にはもう、楽しみがないのかもしれない。悲しい。とても悲しい。
……わたしだけでも、実家に戻ろうかしら。
悩みはじめた時も、現在進行形で、母は黒豆の鍋の写真を送ってきた。もうええよ、黒豆は。
「大丸で買った豆のほうが調子ええわ、高いだけある!」
「ほうか」
「もっともっと上手く炊けるようにがんばるねん!」
昭和のテニス部みたいな爽やかさ。
母の強がりだろうか。本当はさみしいんだろうか。
そして、三ヶ月が経った、週末。
わたしと弟が実家に集結した。
もう何度目ともわからん黒豆、食卓に登場。
あれっ。
なんか、ちょっと、たたずまいが。
正月っぽい。時すでに3月やけども。
「ま、食べてみて」
ミスター味っ子が憑依した母が、ほくそ笑んでいる。
「あっ、おいしい」
「せやろ!!!!!」
「声デカッ」
「お砂糖の量を、レシピの半分にしてん!これぐらいの甘さがええんや!なんぼでも食べられるねん!すごくない?」
世紀の発明をしたかのごとく、母がペラペラとしゃべり出す。
すごいよ。
すごいけども。
「実家でみんな一緒やった時は、黒豆なんか炊かへんかったやん。急にどうしたん?」
「全員のごはん三食も作らなあかんのに、炊けるかいな。黒豆はヒマな時やないと炊かれへんのよ」
「そうなんや」
「奈美ちゃんと良太が週末帰ってくるから、そこに向けて、ひとりでゆーっくり研究を重ねて、炊くんや」
わたしは、気になっていたことを、それとなく聞いてみた。
「もうちょっとたくさん帰ったほうがええ?」
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